明石町 (東京都中央区)
明石町(あかしちょう)は、東京都中央区の地名で、旧京橋区にあたる京橋地域内である。「丁目」の設定のない単独町名である。郵便番号は104-0044[2]。
明石町 | |
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— 町丁 — | |
聖路加国際病院 | |
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座標: 北緯35度40分4.03秒 東経139度46分37.63秒 / 北緯35.6677861度 東経139.7771194度 | |
国 | ![]() |
都道府県 | ![]() |
特別区 | ![]() |
地域 | 京橋地域 |
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[1] | |
- 計 | 3,137人 |
等時帯 | 日本標準時 (UTC+9) |
郵便番号 | 104-0044[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 品川 |
目次
概要編集
隅田川河口部の西岸に位置し、隣の湊と合わせて鉄砲洲と俗称されるほか、広義の築地に含められることがある。聖路加国際病院の所在地で、区関係施設が数か所存在する。明治に外国人居留地が置かれ、西洋文化と関わりが深い。
地理編集
歴史編集
江戸期編集
当初の明石町は明石橋東端の極狭い地域であり、江戸時代には現在の町域は明石町の他、十軒町、船松町二丁目、そして町人街と武家地の混在地で占められていた。武家地には赤穂事件で有名な赤穂藩浅野家の藩邸も含まれる。
中津藩奥平家の中屋敷で前野良沢らが解体新書を完成させたため、蘭学事始の地とされる。同屋敷は1858年(安政5年)に福沢諭吉が慶應義塾の前身となる蘭学塾を開いた地でもある。
明治期編集
1869年(明治2年)には築地居留地が設けられ、文明開化の中心地となった。同年、当地の運上所(現・東京税関)に設けられた電信機役所から横浜裁判所(現・横浜地方裁判所)へ日本初の公共電信が敷かれたことから、電信創業の地とされる。
イギリスの宣教師ヘンリー・フォールズは居留地に滞在中、日本の拇印の習慣に着目して指紋の研究を行ったことから、指紋研究発祥の地とされる。
また明石町は前述の慶應義塾の他、立教大学、明治学院など数多くの大学の発祥地でもある。その他隣接する入船は靴業、築地は活字発祥の地とされるなど、当地やその周辺を発祥地とするものは数多い。
その後編集
居留地は治外法権撤廃に伴い1899年(明治32年)に廃止されたが、聖路加国際病院などの西洋的施設は残り、居留地時代の遺風を残した。1932年(昭和7年)に入船町六丁目の一部を編入する。
1945年(昭和20年)の東京大空襲では、聖路加病院の存在により築地一帯は被害を免れた。終戦後GHQにより近辺の建物が接収された。
1968年(昭和41年)に入船町三丁目の一部を編入し、現在の町域が完成した。平成には聖路加ガーデンなどのウォーターフロント開発が進んだ。
町名由来編集
播磨国明石の漁師が移住してきたからとも、当地を明石浦に見立てたものともいう[4]。いずれにしても、現在の兵庫県明石が由来である。
世帯数と人口編集
小・中学校の学区編集
施設編集
観光編集
交通編集
画像一覧編集
脚注編集
関連項目編集
外部リンク編集
- 中央区ホームページ
- 築地地区 町名の由来 - 中央区ホームページ
- 明石町[築地・明石町エリア] - 中央区観光協会