星野 光多(ほしの みつた、1860年万延元年〉 - 1932年昭和7年〉7月7日)は、明治時代に活動した牧師である。フェリス女学院元教頭。

大蔵省官僚政治家、実業家の星野直樹は長男。津田塾大学の名誉学長の星野あいは妹[1]

生涯 編集

横浜時代 編集

父・星野宗七は上野国沼田藩利根郡戸鹿野村の名主で、幕末の1868年に横浜外国人居留地の近くの堺町に星野屋という店を構えて、蚕種紙生糸の商売を始めた。1860年に次男、光多が生まれた。遠祖は清和源氏という[1]

光多は横浜で外国人と商売をするために英語が必要になり、アメリカ・オランダ改革教会宣教師J・H・バラバラ塾に通うことになった。

光多は1874年(明治4年)12月、15歳で横浜公会でバラから洗礼を受けて、教会員になった。

1877年(明治11年)に中村敬宇同人社に入って3年間学び、中村とカナダ・メソジト教会G・カクランから薫陶を直接受けた。その時、同人社には平岩愃保岩本善治らがいた。1880年(明治13年)からさらに慶應義塾で2年間学んだ。途中で自由民権運動に参加したこともあった。[2]

1882年(明治15年)にはM・N・ワイコフが横浜に設立した先志学校の教師兼舎監として仕えた。その頃、長男直樹が誕生した。1883年にリバイバルが起こると、星野は群馬県議会議長で安中教会執事湯浅治郎の招きで高崎に赴任する。

1884年に家業の星野屋が傾いたため店を閉め一家で沼田に戻る[3][4]

高崎教会時代 編集

星野の伝道活動により約60名の受洗者が起こされ、1884年(明治17年)に西群馬教会(現・日本基督教団高崎教会)を設立する。1884年5月16日に上州からは安中教会牧師海老名弾正湯浅治郎が、東京からはG・H・F・フルベッキ木村熊二植村正久津田仙が出席して星野の按手式をして、牧師就任式を行った。翌日、17日に高崎市宮元町(現・高崎市東町)に新築された教会堂で設立式をおこない、フルベッキ、木村、松山高吉小崎弘道海老名弾正、植村正久の6人の牧師が出席した。1887年(明治20年)には後に牧師として活躍する矢島宇吉に洗礼を授ける。このころ、上州ではハリストス正教と、光多らプロテスタントとが信者の獲得をめぐって激しく競いあった[5]

1989年(明治22年)日本基督一致教会本部より、足利教会(現・日本基督教団足利教会)に派遣され、教会の組織化を図り、1890年(明治23年)4月17日に組織化された教会が発足する。[6]

1890年ころから8年間、妹の幸(こう)や妻のみねとともに、フェリス女学院で教師を務める[7]

両国教会時代 編集

1899年(明治32年)、日本基督教会両国教会の2代目牧師に就任する。1905年(明治38年)、日露戦争終結後の暴動(日比谷焼打事件)により、両国教会の会堂が破壊される。

1920年(大正9年)には両国教会の牧師を引退する。墓所は多磨霊園

家族 編集

  • 父・宗七 (1838-1901、庄屋沼田藩御用商人の出[8])、母・るい(1840-1936)
  • 兄・星野銀治 - 1890年星野製糸所設立し県会議員に。沼田貯蓄銀行創設。利根軌道監査役も務めた[9]。製糸所は子の精一が継いだ[8]。子に星野鉄男(医学者)
  • 弟・星野又吉 - 牧師
  • 妹・高杉幸 - フェリス和英女学校卒業後母校の教師となり、東奥義塾から青山学院大北大の教授になった高杉栄次郎に嫁ぎ、弘前女学校(現・弘前学院聖愛高等学校)の教頭になる[7]。子の英雄は弘前学院元校長[7]
  • 妹・星野あい(1884-1972) - 津田塾大学初代学長[10]。1887年にキリスト教受洗[10]。沼田小学校、横浜フェリス女学校、女子英学塾(1904年卒)を卒業後、静岡英和女学校で半年ほど教師を務めるが津田梅子が設立した日本女性の海外留学を推進する「日本婦人米国奨学金制度」に選ばれたため米国ペンシルベニア州ブリンマーカレッジ理学部に留学し、1912年卒業[10][11]。帰国後、女子英学塾に勤め、1918年コロンビア大学教育学部に短期留学して学位を得、1919年女子英学塾教頭、1929年塾長を務め、1943年には理系学部を増設して津田塾専門学校設立に尽力[12]。1947年-1952年に津田塾大学学長を務めたのち、同大名誉学長となり、汎太平洋東南アジア婦人協会日本委員、国際基督教大学評議委員、日本国際協会婦人部委員なども務めた[12]
  • 妻・長谷川みね - 幸の学友。フェリスで教師を務める[7]
  • 子に直樹、茂樹(東大卒業後国鉄入社、鉄道トンネル技師)、芳樹静岡新聞記者、日本共産党員、参議院議員、スワヒリ語学校経営)。娘の花子は津田塾卒業後、ミシガン大学へ留学、日系二世の大学院生ジョセフ・K・ヤマギワ(日本名・山極越海、のちミシガン大学極東語学文学科教授)と結婚し、米国に永住した[13]

出典 編集

  1. ^ a b 丹羽 1970, p. 286.
  2. ^ 高橋2003年、88-89ページ
  3. ^ 絹先人考「35・星野宗七」 上毛新聞、2007年12月9日
  4. ^ 「ぐんまルネサンス」 第2部 35 星野 宗七 上毛新聞、2007年12月9日
  5. ^ 日本の近代製糸業とキリスト教精神 杉本星子、杉本良男編『キリスト教と文明化の人類学的研究』国立民族学博物館調査報告 62:71‒91(2006)
  6. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、p.41
  7. ^ a b c d 高杉幸子 坪田庸子「津軽地方の女子教育を考える その1」弘前学院大学・短期大学紀要24号
  8. ^ a b 『日本近代化の精神世界: 明治期豪農層の軌跡』宮澤邦一郎、雄山閣, 1988
  9. ^ 星野銀治 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  10. ^ a b c 星野あい 歴史が眠る多磨霊園
  11. ^ Bryn Mawr College Calendar, 1914 Bryn Mawr, PA: Bryn Mawr College、1914
  12. ^ a b 星野 あい(読み)ホシノ アイ コトバンク
  13. ^ 『言国卿記 1, 第 1 巻』八木書店, 1969、続群書類従完成会会報「資料纂集」7号、p1

参考文献 編集

  • 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年
  • 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年
  • 丹羽基二『姓氏 : 姓氏研究の決定版』樋口清之監修、秋田書店、1970年7月。ISBN 4253002099 

外部リンク 編集