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春秋時代の勢力図
戦国時代の勢力図

春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)(中国語:春秋战国时期|拼音:chūnqiū zhànguó shíqī)は、古代中国における周王朝の後半期に区分される時代であり、紀元前770年に周が東西に分裂してから、紀元前221年にが中国を統一するまでの、およそ550年に渡る期間を指す。

周王朝が、鎬京を都としていた紀元前771年以前を西周と呼び、洛邑が都になった紀元前770年以後を東周と呼ぶ事から、東周時代とも別称される。もっぱら春秋戦国とひと括りにされるが、紀元前5世紀を境目にした前半期を春秋時代とし、後半期を戦国時代として別々に扱われる事も多い。なお、春秋の呼称は周代に成立した儒家経典の「春秋」に由来しており、戦国の呼称は前漢期に編纂された歴史書「戦国策」から取られている。

この時代は全期間を通して群雄割拠の戦乱の時代であり、周王朝下の秩序が失われた事で互いに争うようになった各地の諸侯が500年以上に渡って興亡を繰り広げた。春秋時代には大小合わせて200以上の諸侯領が存在し、周王の名代として全諸侯を従える覇者の座を巡って大国が競い合い、小国は滅ぼさずに従属させるのが慣わしであったが、戦国時代が近付くと周王朝の権威も形骸化した事で諸侯たちは独自の権力の確立を望むようになり、小国は積極的に滅ぼされて吸収されるようになった。200の国々は弱肉強食の構図の中で7つの大国に収束され、最終的にはによって統一された。また、この時代は諸子百家と称される優れた思想家を輩出した。

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目次

春秋時代編集

周王朝の凋落(紀元前771年)編集

前1046年頃に開かれた周王朝は、前900年を過ぎる頃から衰退の兆候を見せ、前771年には現在の湖北省にあった諸侯国「申」が反乱を起こし、王都鎬京を攻め落とした後に周の幽王を殺害したので、一時滅亡する事になった。前770年に申侯は、幽王の子であり自身の孫でもある平王を即位させて洛邑に遷都させるが(東周)、鎬京に残っていた別の周王朝一派が幽王の弟である携王を擁立した為(西周)、周王朝は東西に分裂する事になった。

この東西の抗争は20年続き、前750年に東周が西周を下して王権を一本化するも、直接の領土は洛邑周辺に限られる状態となって往年の勢力はほぼ失われていた。周の内乱を引き起こした「申」は東西抗争の中で急速に力を失って長江流域の諸侯国「」に併呑されていた。周王朝の勢力喪失に伴い各地の諸侯は独立状態となったが、その権威は依然重視されており、周王の名代として諸国を束ねる「覇者」の座に就く事が諸侯たちの目標となった。

時代背景編集

春秋時代は、当時の先進開発地域である中原(現在の河南省一帯)から遠く離れたそれぞれの僻地の後進開発の時代であった。広大な未開地を持つ辺境諸侯の下に優れた人材が集まると、その土地の開発が進んで生産力が上がり、人口とそれに伴う兵力も増えて他の諸侯を圧倒した。しかし、優れた開発の担い手がいなくなると急増した人口との不均衡から生じる政情不安によってすぐ衰退し、遅れて発展して来た他の諸侯に取って代わられた。人材の利を得たそれぞれの未開地は順々に開発されて、最も発展した土地の諸侯である「覇者」の所在も次々と移り変わった。

この時代は異民族の侵入が多く、主にオルドス地方遼河方面から黄河中下流域を目指して襲来する遊牧民または半牧半農の民族を、中原の住民たちは夷狄と呼んで大きな脅威と見なしていた。夷狄は移動中の邑々で略奪を繰り返し、またその地を奪って独自の生活拠点とする事もあった。諸侯の盟主である「覇者」は率先して夷狄の侵入に対抗する義務を負った。

主な国々編集

晋・斉・秦・楚・宋・鄭・衛・魯・燕・曹・陳・蔡の12国は「春秋十二諸侯」と呼ばれた。その他におよそ200を数える小国があった。小国は十二諸侯のいずれかに従属してその勢力圏の一部となり、力関係の変化に合わせて盟主を変える離合集散を繰り返していた。周王朝は中原洛邑周辺の領土を持つのみだったが、その権威は重視されていた。

初期・覇者争奪(紀元前770年~前590年)編集

東周が始まった前770年からの約70年間は、王都洛邑を取り巻く形で中原河南省)の先進地域を占めるが諸侯の重鎮として権勢を振るっていた。前700年を過ぎると辺境諸侯の隆盛が始まり、元々は東夷の地であった山東省)が国力と名声を高めて前685年に覇者の座に就いた。北狄と接する山西省)は楚との戦いに勝利して前636年から覇者となった。西戎と領域を重ねる陝西省)も大きな発展を遂げて前628年から覇者と同一視された。南蛮と見なされていた湖北省+湖南省)は晋との攻防を制して前613年に覇者の地位を獲得した。これら辺境諸侯たちの新興に伴い、華化された領域も拡大していった。

春秋初期は覇者が君臨している期間、覇者はいるがその対抗国との争いが絶えない期間、諸侯がまとまらず覇者空席となった期間が不定期に交替しており、春秋十二諸侯とその下で離合集散を繰り返す小諸侯が網の目の様な外交関係を織り成して、グループ同盟と共闘および多国間戦争を繰り返していた。

中期・諸侯休戦(紀元前590年~前501年)編集

前600年を過ぎると今度は諸侯の内側に対する権威が失われ始め、といった国々で主君の力を凌ぐ貴族達の派閥争いが顕著になった。覇者の座を巡る戦いに疲弊し、また内紛にも忙殺されていた諸侯たちは前579年に休戦協定を結んだ。以後の約70年間は覇者が置かれる事はなく、諸侯の交戦も減って比較的平穏な期間がもたらされた。前546年にも諸侯の間で改めて休戦協定が締結されたが、その約40年後には再び戦いが頻発するようになった。

後期・呉越勃興(紀元前501年~前453年)編集

前500年頃のはほぼ内部分裂状態になっており、またの勢いも停滞していた。代わりに頭角を現したのが南蛮僻地にある江蘇省)であり、鉄と塩による大開発を成し遂げたは、との戦争に勝利した後に北上して中央へ進出し、前501年に諸侯の会盟の中で回帰された覇者の座に就いた。だが、同じく南蛮辺境にあった浙江省)が宿敵である呉を攻め滅ぼして前496年にその後釜に座り、約30年間覇者として存在した。

前470年頃になると周王朝の権威も省みられなくなった事で覇者の存在感も薄くなり、越の後の覇者の地位は自然消滅した。越は急速に力を失い、勢いを盛り返した楚に押されるようになった。諸侯たちは独自の権威の確立を望むようになり、それまでは従属させるに留めていた小国を積極的に滅ぼして吸収し始めた。また、国主の力がすっかり失われていたでは前497年頃から有力貴族六氏の抗争が激しくなり、この内紛を制した三氏の大貴族が前453年に晋を分割しての三国が成立した。これを境目にして中国大陸は戦国時代を迎える事になった。

戦国時代編集

時代背景編集

下克上の戦乱が続く中で生来の身分に寄らず個人の才能を重視する風潮が広まり、様々な階層から名乗りを上げた人材を積極活用する諸侯が増えた事で、従来の統治の仕組みに様々な変革がもたらされた。戦国時代はこうした制度改革と人材交流の時代であった。制度面では儒家徳治主義に対する法家法治主義の優越性が顕著となり、また縦横家の外交戦略と兵家の軍事行動は諸国の勢力図を大きく塗り替えた。人材面では才能ある者達を食客として囲い、自身の頭脳または手足として活かす戦国四君に代表される貴族達が登場した。春秋時代からの抗争を勝ち抜いた七つの大国はすでに一定の開発基盤を得ていたので、優秀な人材の到来と喪失がそのまま国家の盛衰に直結する事になった。

また七つの大国に収束された事で、オルドス地方遼河方面から襲来する異民族にも強力に対抗出来るようになり従来の脅威も軽減された。この時代の夷狄の間では部族統合による大勢力が誕生しなかったので大規模な侵略が起きる事も少なかった。

主な国々編集

斉・秦・楚・魏・韓・趙・燕の7国は「戦国七雄」と呼ばれた。上記の他にも10程度の小国があった。なお、魏・韓・趙は前403年まで周王朝から正式な諸侯の認定を受けていなかった。洛邑周辺を維持する状態が続いていた周王朝はその権威も形骸化していた。七雄以外の小国と越は戦国時代中頃までに滅ぼされて消滅した。

初期・魏国新興(紀元前453年~前330年)編集

前445年に即位した魏の文侯は、法家李克兵家呉起などを用いて魏の国力を高めた。前405年に魏軍は趙韓両軍と共に斉軍を撃破して名声を高め、前403年に魏・趙・韓は周王朝から正式な諸侯として認められた。その後の魏は中原を狙って北上する楚との攻防を繰り広げて最終的な勝利を収め、前389年には秦軍を打ち破った上で秦への大きな牽制となる河西の要衝を確保し、中原の大国として名乗りを上げた。

前369年に恵王が即位した後の魏は、斉・秦・趙・韓の四ヶ国に包囲されて形勢不利となった。斉は前356年に即位した威王の優れた治世で国力を伸ばし魏を警戒させ、秦は前361年に即位した孝公法家商鞅を登用して富国強兵に成功し西から魏を攻め立てていた。前341年に魏軍は斉軍の孫臏の計略によって大敗を喫し(馬陵の戦い)、また前330年には河西の要衝を秦軍に占領された。危機に陥った魏は遷都を余儀なくされて大国の座から滑り落ち、斉と秦が強国の立場に躍り出る事になった。

中期・斉秦二強(紀元前330年~前278年)編集

斉と秦の二強時代となる中で、他の諸国は斉と秦の間で揺れ動き様々な外交戦が繰り広げられた。東方の縦横家蘇秦は斉・楚・魏・趙・韓・燕の六ヶ国同盟を築いて秦を孤立させた(合従)。対する秦の縦横家張儀は魏・趙・韓・楚・燕とそれぞれ五本の同盟を成立させて今度は斉が孤立した(連衡)。前320年頃から始まった孟嘗君の政治で斉は大きく発展し、前316年にを併合した秦も生産力を拡大して両国の二強化に拍車が掛かった。前314年に燕は斉の属国となった。楚の懐王は重臣屈原の諌めを聞かず秦の甘言に翻弄されるがままとなり、前313年から秦に次々と領土を奪われていた。前307年以降の魏と韓は、秦または斉との従属同盟の間を行き来するようになっていた。一方、趙は前306年に武霊王が編制した胡服騎射(弓騎兵)の軍隊で善戦し中堅国の立場を確立していた。

前300年に即位した斉の湣王は威圧を繰り返して諸国の反発を買っており、斉への復讐を志す燕の昭王は蘇秦の働きで燕・趙・魏・韓・秦の五ヶ国連合軍を築く事に成功した。その指揮をまかされた楽毅は前284年に斉軍を撃破して斉全土を席巻した。しかし、燕の昭王が逝去した後に楽毅が将軍を解任されると斉軍は反撃に転じ、前279年に田単の作戦で燕軍を敗走させるとそのまま全領土を奪還した。斉は滅亡を免れたが国土は荒れ果て大国の地位から転落した。

後期・秦的覇権(紀元前278年~前221年)編集

斉の没落で秦の一強化が進み、前306年に即位した秦の昭襄王は諸国への攻勢を拡大した。白起が率いる秦の大軍は前278年に楚の首都を落とし、前273年に魏軍を大破し、前264年には韓に痛撃を与えた。前266年から秦の宰相范雎が進めた遠交近攻戦略で魏と韓は多くの領土を切り取られた。趙は廉頗藺相如たちの働きで抗戦出来ていたが、それぞれが世代交代した後の前260年に発生した戦国期最大規模の戦い(長平の戦い)で惨敗し多大な兵力を喪失した。趙の平原君の呼び掛けで来援した魏・楚・趙の連合軍は前257年に秦軍を退かせ、秦の大攻勢も一時休止した。前256年になると秦は周王朝を廃立した。秦が全諸国を圧倒する中で、前247年に魏の信陵君が魏・趙・韓・楚・燕の五ヶ国連合軍を率いて秦に反撃したが失敗し、同様に楚の春申君が前242年に結成した反秦連合軍も秦軍の前に敗れた。

前247年に秦王政が即位した。秦王政は法家李斯を重用して法治国家の体制を整え、中国統一に向けた国力と兵力を着々と蓄えた。前230年から諸国征服の大遠征が開始され、王翦らが率いる秦の遠征軍は韓・趙・魏・燕・楚を次々と滅ぼし、前221年に斉を降服させて中国全土を統一した。前220年に秦王政は「始皇帝」を称した。

春秋と戦国の区分編集

春秋時代の終わり・戦国時代の始まりについては諸説あり、の家臣であった韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時点を採る『資治通鑑』説の2つが主流である。この他に、『春秋』は哀公十四年(紀元前481年)に「獲麟」(麒麟を獲た)の記述で終了するので、これをもって春秋時代の終わりとする説、『史記』の『六国年表』が始まる紀元前476年とする説などがある。

諸子百家編集

百家の分類編集

春秋戦国時代は優れた学者と思想家が数多く登場した時代としても知られている。当時の学問は師の下に弟子たちが集まる形で研鑽ないし伝承され、この師匠と門弟からなる学士集団は「家」と呼ばれた。「家」はより広い意味をも含み、同じ師のルーツを持つ一門を指す場合にも用いられた。互いに共通する思想ないし教義の相関性を持つ「家」の集合体は「流」とされ、これは学派と同義の言葉となった。「流」の開祖的存在であり、また特に後世への影響を残した師は「子」と称えられた。孔子老子荘子墨子孟子荀子韓非子といった偉大な思想家の輩出は諸子と呼ばれ、多種多様な学士集団の賑わいは百家と成句された。

後漢期の歴史家班固はこの百家を九流十家に分類した。道家儒家法家墨家名家陰陽家縦横家農家雑家九流と呼ばれ、これに小説家を加えたものは十家と称されている。小説家は世間の故事伝承を伝える言わば報道書簡の寄せ集めだったので「流」とは見なされなかった。更に兵家方技家中国語版の二つが加えられて、春秋戦国時代の学者ないし思想家たちはこの十二学派に分類されるのが通例となっている。

  1. 道家  - 自然哲学の一種。人の在り方を説いた。後に道教の基盤となった。
  2. 儒家  - 社会哲学の一種。儀礼と礼節の必要性を説き上下の身分秩序と徳による統治を旨とした。
  3. 法家  - 政治哲学の一種。法律による政治支配と社会統制を重視した。
  4. 墨家  - 社会哲学の一種。平等・博愛・団結・勤労の重要性を説きマルクス主義との親和性が高い。
  5. 名家  - 弁論に活かす為の論理学の一種。
  6. 陰陽家 - 森羅万象を解析する為の東洋版元素論を軸にした自然哲学の一種。
  7. 縦横家 - 外交戦略に活かす為の弁論術および論理学の一種。
  8. 農家  - 農学に近い学問。
  9. 雑家  - 様々な分野の知識を集めた百科事典的学問。
  10. 小説家 - 世間の出来事や伝承を著述した報道的分野。
  11. 兵家  - 兵法として知られる軍事学の一種。
  12. 方技家中国語版 - 当時の医術と化学および仙人の知識などを扱った錬金術的学問。

百家の推移編集

春秋時代初期には「道」の思想家と「法」の理論家たちがすでに存在していた。自然哲学natural philosophy)の一種である「」は人間文化の誕生と共に自然発生し、政治哲学political philosophy)の一種である「」は国家の成立と共に誕生した。国家と軍隊は表裏一体であったので軍を動かし律する為の「」も同時に編み出されていた。春秋時代中期に王侯士大夫の身分秩序の乱れが顕著になると、その回復と社会の安定を願って社会哲学social philosophy)の一種である「」の教えが生まれた。「儒」は「法」と反目する部分が多かった。

戦国時代に入ると「儒」と反目する部分が多くマルクス主義との親和性が高い社会哲学の一種である「」の思想が広まった。また「道」をベースにして森羅万象を解析する為の元素論elemental theory)を取り入れた「陰陽」の思想体系が形成された。思想家たちの交流と活動が盛んになるにつれて相手を説得ないし論破する為の弁論rhetoric)が磨かれる事になり、理屈を組み立てる為の論理学logic)の一種である「」が誕生した。更に「名」の技術を外交戦略(diplomatic strategy)に応用した「縦横」の一派が登場した。

実学の探求も進められ、現代の農学agriculture)に近い「」と、様々な分野の雑学知識trivia)を収集した「」の関連書物が数多く編纂された。「雑」には動物植物鉱物天文などを扱う博物学natural history)的要素も含まれていた。「道」と「陰陽」をベースにした錬金術alchemy)的学問である「方技中国語版」も体系化された。「方技中国語版」はいわゆる仙人に関係した知識群であったが、当時における医学と化学も専門にした。世間の出来事や伝承を記した書物も数多く存在し、当時の報道媒体report)とも言えるこれらの著述家たちは「小説」と分類された。

彼らの文化活動は戦国時代中期に隆盛を迎えた。紀元前350年頃に斉の首都臨淄に大規模な学問所が開設され、そこに集まった稷下の学士と称される思想家たちが日々自説を競い合い学問文化を発展させた故事は百家争鳴の成句として知られている。

諸侯と爵位編集

および周王朝が開かれる以前の古代から、中国大陸では主に河川の流域に集落が形成され、それはやがて城壁で囲まれた「」へと発展した。中国大陸には黄土など粘土質の土砂が多く、それをレンガ状に固めて積み重ねるという比較的原始的な作業で城壁を築く事が出来た為、人口が増えて余力のある集落はすぐに城壁を持って邑となった。少ない人数でもより多くの外敵に対抗出来る城壁を持つ事は邑の独立性を高めたので、小さな都市国家が多数出現する事になった。周王朝初期の中国大陸には大小合わせておよそ1700の邑が存在したとされる。また、より力のある邑が周囲の邑を従えて一つの勢力圏を築くようになった。中国の戦いは川の奪い合いから始まったと言われており、同じ河川沿いにある邑は一つの勢力にまとめられる事が多かった。勢力の中心となった邑は「都」と呼ばれた。こうした勢力は「邦」と呼ばれる事もあり、周王朝初期には諸侯となる勢力が大小合わせて200以上存在していた。

周の前時代、現在の河南省安陽市に都を置いた殷王朝は自身に服属した各地の邦ないし邑を「諸侯」として扱った。殷の冊封範囲は黄河中下流域と淮河の北側に限られていた。諸侯には王朝臣下の証となる爵位が与えられて、それは漢字一文字で表された。大抵は「侯」が与えられ、特に格式を認められた邑主には「公」が授けられた。殷王の直臣の邑主は「伯」となった。

殷を倒して現在の陝西省西安市に都を置いた周王朝は冊封範囲を長江流域まで広げた。服属しない邦と邑は遠征軍を送って滅ぼし、周の王族または家臣を新たな邑主にして諸侯とする事もあった。黄河文明(中原)の周王朝から見て、当時の長江流域は文化と風習その他が全く異なる化外の地であり、こうした中原文化の洗礼を受けていない異民族の諸侯には「」の爵位が与えられた。子はその土地の名士程度を意味するものだったとされる。中原文化の影響下にある諸侯には「」が与えられ、特に格式を認められた諸侯は「」に格上げされた。周王朝は侯爵を細分化して、その下に「」「仲」「男」の爵位を作り、分家的諸侯や小さな諸侯および新しく取り立てた者をこれに封じた。伯は天子の長子、仲は天子の次子という意味に因んでいた。男は田畑の地主的な意味合いだったとされ、一説には’’侯甸男’’で示される諸侯の陪臣でもあり、これが戦国時代の君号に変化したという見方もある。王朝初期は「叔」という爵位もあり、王の兄弟など王族から新しく諸侯になった者が授けられたが、後に侯爵または伯爵に吸収された。仲爵の者はしばらく代を重ねると伯爵に昇格する事が多く、男爵の者は恐らく目上諸侯の大夫として吸収されていたと考えられ、西周末期にはごく少数となっていた。

春秋時代開幕時に記録されてる諸侯の数はおよそ220であり、それぞれが中国全土に割拠して・仲・・男のいずれかの爵位を持っていた。仲と男は稀な爵位となっていた。この頃になると爵位の高さと勢力の強さには何の関係も見られなくなっていた。例として中原諸侯と異なる文化風習を持っていた楚は大国であるにも関わらず、周王朝から一貫して子爵とされ続けた。

礼記・周礼にある五等爵

なお、上述の爵位は春秋その他の先秦文献および明確な同時代史料である金文甲骨文を典拠としたものである。現代に入り欧米に倣った古代史研究アプローチが導入されて発掘技術の進歩と調査の実施が盛んになった事により、金文を始めとする古代史料の発見が急増した。それらの史料解析から読み取れる爵位の在り方と、礼記周礼に記されている五等爵制はかなりの部分で食い違っている。

五等爵制とはいわゆる「公・侯・伯・子・男」であり、近代以前は史実とされ、日本でもこれをなぞって華族の等級にし、またヨーロッパ爵位の翻訳にも当てはめている。中国の歴史学者傅斯年は五等爵制を、戦国時代の儒学者たちが周代宗法を基にして編み出した推測に過ぎないと結論付けている。歴史家郭沫若訓詁学者楊樹達も同様に、五等爵制は信じがたく周代の諸侯序列はこの様に定まっていないと結論している。

脚注編集

関連項目編集