昭和塾堂(しょうわじゅくどう)は、愛知県名古屋市千種区城山町城山八幡宮境内に残る昭和戦前期の教育施設。所在地は末森城の二の丸部分に相当する[3]

昭和塾堂
Shōwajukudō.jpg
情報
用途 教育施設[1]
設計者 愛知県営繕課
(酒井勝、安藤武郎、黒川己喜、尾鍋邦彦)[1]
施工 志水組[1]
建築主 愛知県[1]
構造形式 鉄筋コンクリート構造[1][2]
敷地面積 22,945.726 m² [1]
建築面積 820.175 m² [1]
延床面積 2,064.7 m² [1]
階数 地下1階、地上3階(塔屋4階)[1][2]
高さ 32m(塔屋先端)[1]
着工 1928年1月[1]
竣工 1928年11月[1]
所在地 464-0045
愛知県名古屋市千種区城山町2丁目88番地[2]
座標 北緯35度10分0.29秒 東経136度57分32.66秒 / 北緯35.1667472度 東経136.9590722度 / 35.1667472; 136.9590722 (昭和塾堂)座標: 北緯35度10分0.29秒 東経136度57分32.66秒 / 北緯35.1667472度 東経136.9590722度 / 35.1667472; 136.9590722 (昭和塾堂)
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概要編集

愛知県が青年向けの社会教育に資するために建設した建物である[4]。計画当初は県の財政難もあり、建設を反対する者があったため、費用の一部を寄付金でまかなうことを条件に予算案が県議会で可決されたという経緯があるという[4]。その結果総額16万円の費用のうち、4万円が寄付により集められた[4]

また、建設には勤労奉仕として延べ人数にして1081人の青年団員が動員された[4]

1943年(昭和18年)には旧日本軍により接収されることとなった[4]。戦時中には陸軍東海軍司令部として使用されることとなった[2]。戦後は、名古屋大学医学部基礎医学系諸教室や、愛知県教育文化研究所、千種区役所仮庁舎などを経て、愛知学院大学大学院歯学部研究棟として使用された。[2]

建物は1967年(昭和42年)に愛知県から城山八幡宮に払い下げられており、愛知学院大学は城山八幡宮からの貸与を受けて使用していたが[4]、2017年(平成29年)4月30日に賃貸借契約は終了した。

名称は当時の愛知県知事である柴田善三郎が命名したものである[1]。計画当初の元号は大正であり、単に「教化殿堂」の名称を予定していた[4]

城山八幡宮は帝冠様式の先駆けであるとの立場を取るが[1]、名古屋大学西澤研究室は帝冠様式とするのは無理があり、折衷様式であるとする(木戸広太・西澤泰彦『昭和塾堂の建設過程とその建築的特徴に関する報告書』2007)[5]

建築概要編集

  • 設計 - 愛知県営繕課[1]
  • 竣工 - 1928年(昭和3年) [1]
  • 施工 - 志水組[1]
  • 構造 - 鉄筋コンクリート構造[1]
  • 所在地 - 〒464-0045 愛知県名古屋市千種区城山町2丁目88番地[4]

交通アクセス編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 城山八幡宮. “昭和塾堂”. 2015年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e 千種区役所区民生活部まちづくり推進室まちづくり推進係 (2012年). “旧昭和塾堂”. 名古屋市公式ウェブサイト. 名古屋市. 2014年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月20日閲覧。
  3. ^ 愛知県教育委員会 1991, p. 137.
  4. ^ a b c d e f g h 名古屋市住宅都市局まちづくり企画部歴史まちづくり推進室 2011, p. 28.
  5. ^ 千種区田代地域委員会 (2011年). “第3章 田代学区の歴史的建造物の実態 (pdf)”. 歴史的建造物を活かしたまちづくり. 名古屋市千種区役所. p. 29. 2015年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月20日閲覧。

参考文献編集

  • 愛知県教育委員会『愛知県中世城館跡調査報告Ⅰ(尾張地区)』愛知県教育委員会、1991年3月。
  • 名古屋市住宅都市局まちづくり企画部歴史まちづくり推進室『歴史的建造物を活かしたまちづくり 田代学区歴史的建造物活用検討報告書』名古屋市住宅都市局まちづくり企画部歴史まちづくり推進室、2011年。

関連項目編集

外部リンク編集