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昭懐皇后(しょうかいこうごう、?[1] - 1113年3月5日)は、北宋哲宗の皇后。姓は劉氏は不詳[2]

目次

生涯編集

劉安成と妾の王氏の娘。初め、哲宗の侍女を務めた。仕事が抜群に優れ、聡明だが短気で自由奔放な性格を見せ、後宮で最も美しい侍女であったという。

宣仁太后が崩ずると、平昌郡君に封ぜられた。紹聖2年(1095年)5月、美人に進んだ。同年10月、婕妤に進封された。女子を1人産んだ。哲宗は劉氏を深く寵愛し、宣仁太后から選ばれた正妻の孟皇后と劉氏の間で多くの確執が生じた。劉氏は孟皇后を軽侮し、側室の礼をとらなかった。紹聖3年(1096年)に掖庭の獄が起こり[3]、9月29日に孟氏は呪詛[4]媚薬使用[5]と病原投与[6]の罪で廃された。

その後、劉氏は婉儀(従一品嬪)に進み、紹聖4年(1097年)に女子(純美帝姫)を産んて賢妃にいたった。2年後、男子(趙茂)を産んで皇后となった。しかしその2か月後、それら2人の子供は相次いで夭折した。哲宗は悲嘆のあまり自身も健康を害し、3か月後の元符3年(1100年)正月に崩じた。

哲宗の崩御後まもなく、嫡姑(神宗の正妻、哲宗の嫡母)の皇太后向氏によって劉氏は廃されそうになったが、徽宗の取りなしにより免れた。一方で、向氏によって孟氏が皇宮に召還され、皇后に復されて元祐皇后を称し、劉氏より高い待遇を受けた。その後、殺害された卓氏が趙茂の実母であったと噂された。同年5月、劉皇后は激怒して上奏文で自身の潔白を公表し、公開審判を請求した。翌崇寧元年(1101年)、徽宗により劉皇后の名誉が回復された。翌年、孟氏が再び廃された。劉氏は太后と尊称され、「崇恩」の徽号が贈られた。

政和3年2月9日(1113年3月5日)、劉氏は急死した。「懐」とされ、哲宗の永泰陵に合葬された。死因について、下人に迫られて自ら縊死したと伝わる。外臣と密通し、垂簾政治を望んだと言って、徽宗は太后劉氏の廃位を準備したが、腹心らの献策により自死という結果になったというものである。

逸話編集

  • 紹聖2年(1097年)9月、哲宗が祭壇で祭祀を執り行った際、劉氏(当時は美人)が哲宗の側に侍奉した。本来は皇帝以外の者はみな離れて仰ぎ見るべきところであり、常安民が諫めたが、哲宗はその言に腹を立てた。翌月、劉氏は婕妤に上った。
  • 紹聖3年(1098年)、后妃は景霊宮(先帝たちの霊位)に詣でた。孟皇后は勤めを終えて着席すると、他の妃嬪たちは側に立っていたが、劉婕妤は皇后に背を向けて御簾の下に立っていた。孟皇后の侍女・陳迎児が退くように言ったが、劉婕妤はまるで意に介さなかった。その後、哲宗は陳迎児を杖罪に処して追い出した。
  • 北宋の時代、翰林学士たちは皇帝、皇后、妃嬪に「新春貼子」(年賀詩)を献じた。元符2年(1099年)新春、蔡京は劉賢妃のため詩を作り、「三十六宮人第一、玉楼深処夢熊羆」と詠った。

子女編集

脚注編集

  1. ^ 新法派政権によって記された劉氏の過去の記述は抹消された。『宋史』皇后伝によると、劉氏の享年は数え35歳とされるが、信用できない。『宋史』列伝第104と『続資治通鑑長編』に残る記録によると、劉氏は哲宗の少年時代の侍女であった。元祐4年12月(西暦で1090年)に劉氏は妊娠の疑いから乳母を雇用し、哲宗の祖母の宣仁太后にそれをとがめられて殴り倒され、追い出された。前述の享年が正しければ、当時は数え11歳であって、妊娠後期になる可能性はほとんどない。
  2. ^ 「清菁」とされることがあるが、信頼できる史料上には見られない。
  3. ^ 南宋成立後、哲宗の実録が改訂されたが、新法派政権によって記された孟皇后の呪詛の記述は抹消され、孟皇后の直接の証言(孟皇后の娘・福慶公主の病のため、治病符水が皇宮へ持ち込まれた)などが記されるのみになった。
  4. ^ 哲宗の寵愛の獲得と劉婕妤の呪殺のため、国禁であった呪法「雷公式」を行った。
  5. ^ 哲宗の茶に媚薬を入れて飲ませた。
  6. ^ 結核による死者の骨灰を劉婕妤の寝宮に散らした。
  7. ^ 哲宗の長く生きた2人の女子(淑和帝姫淑慎帝姫)のうちのいずれか。

伝記資料編集

  • 『宋会要輯稿』
  • 『皇宋十朝綱要』
  • 『続資治通鑑長編』