晡時臥山(くれふしのやま)は常陸国風土記の那珂郡の条に記された。この山についていくつかの民話・伝承が残されている。茨城県水戸市笠間市および、城里町に跨る朝房山であるとされる。

位置 編集

今日の茨城県水戸市笠間市および、城里町に跨る朝房山であると推定されている[1]常陸国学者である中山信名編の『新編常陸国誌』では、晡時臥山について「茨城郡牛伏村の北ニアリ、(中略)、今アサボウ山ト云フ、牛伏ハ即晡時臥也」と記された[2]

伝承 編集

常陸国風土記 編集

常陸国風土記では晡時臥山の伝承は下記のように伝えられる。

茨城の里の北にある高い丘に晡時臥山があり、努賀毗古(ぬかびこ)と努賀毗咩(ぬかびめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀毗咩の元にだれとも分からない求婚者が夜毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀毗古も努賀毗咩も神の子ではないかと驚き、清めた坏に蛇を入れ祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいにまで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀毗咩は蛇に自分では養いきれないので父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれるよう頼んだ。努賀毗咩がここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀毗古を殺し、天に上ろうとした。驚いた努賀毗咩が盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより天に上ることができなくなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている。

常陸国風土記原文は次の通り。

茨城里自此以北高丘名曰晡時臥之山古老曰有兄妹二人兄名努賀毗古妹名努賀毗咩時妹在室有人不知姓名常就求夜来晝去遂成夫婦一夕懐妊至可産月終生小蛇明若無言闇与母語於是母伯驚竒心挾神子即盛浄杯設壇安置一夜之間已満坏中更易瓮而置之亦満瓮内如此三四不敢用器母告子云量汝器宇自知神子我属之勢不可養長冝従父在不合有此者時子哀泣拭面答云謹承母無敢辞然一身獨去無人左右望請矜副一小子母云我家有母与伯父是亦汝明知當無人相可従爰子含恨而事不吐之臨決別時不勝怒怨震殺伯父而昇天時母驚動取瓮投觸子不得昇因留此峯盛瓮今存片岡之村其子孫立社致祭相續不絶

— 常陸国風土記、那珂郡

この夜毎に現れて求婚をする正体不明な男や、生まれた子が問題となる伝承は、古事記に伝わる三輪山の伝承や山城国風土記逸文に伝えられる賀茂の伝承[4]など類似するものが多い[5]。また、肥前国風土記の褶振山の伝承でも夜毎に通う蛇の説話が伝えられる[6]

ダイダラボウ 編集

水戸市大足では晡時臥山はダイダラボウ伝説とも結びついている[6] 。これは、かつては西南にあったこの山が日陰を作って日暮れが早く、これに困りダイダラボウに山を動かしてもらったというもので、クレフシの名はすなわち、日暮れを防ぐことを意味するというものである[6]

脚注 編集

  1. ^ くれふし山”朝房山”(くれふしやま”あさぼうやま”)”. 茨城県生活環境部生活文化課. 2017年11月24日閲覧。
  2. ^ NDLJP:763973, 中山信名『新編常陸国誌 巻上』第六巻 山川, p.1090
  3. ^ 国史大系 7巻, pp.633-634
  4. ^ 釈日本紀』巻9「頭八咫烏」[3]
  5. ^ 晡時臥山伝説(くれふしやまでんせつ)とは”. 世界大百科事典 第2版 - コトバンク. 2017年11月24日閲覧。
  6. ^ a b c 今瀬文也. “『常陸国風土記』と民話” (PDF). 茨城県郷土文化振興財団. 2017年11月24日閲覧。

参考書籍 編集

  • 『風土記 (上)』角川学芸出版〈角川ソフィア文庫〉、2015年。ISBN 978-4044001193 

関連項目 編集