北条業時

鎌倉時代中期から後期の武士。 左馬権頭、越後守、駿河守、陸奥守。鎌倉幕府 引付衆、評定衆、連署。北条重時の四男。母は筑前局(側室、備後局)。普恩寺流北条氏の租。
普音寺業時から転送)

北条 業時(ほうじょう なりとき)は鎌倉時代中期から後期にかけての北条氏の一門。普恩寺 業時(ふおんじ なりとき)とも呼ばれる。鎌倉幕府六波羅探題北方・連署である北条重時の四男。普恩寺流北条氏の租。母は側室の筑前局。桓武平氏諸流系図関東閨閥皇代並年代記事所蔵の「北条系図」によると、初めは重長と名乗っていた。

 
北条業時 / 普恩寺業時
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 仁治2年(1241年)または仁治3年(1242年
死没 弘安10年6月26日1287年8月13日
改名 業時、普恩寺全念(監忍)
別名 五郎、七郎
官位 左馬権頭、越後駿河守、陸奥守
幕府 鎌倉幕府 引付衆評定衆連署
氏族 北条氏極楽寺流
父母 北条重時、筑前局(備後局とも)
兄弟 為時長時時茂業時義政忠時
葛西殿安達泰盛室、宇都宮経綱室、他
北条政村の娘
時兼、ほか
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兄弟の序列では年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が四男、業時が五男として扱われた。しかし、8代執権北条時宗の代の後半の義政遁世以降からは、義政の死により空席となっていた連署に就任し、9代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は極楽寺流嫡家の赤橋家の下、弟の義政(塩田流)が(業時(普恩寺流)より上位の)2番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降は業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ2番手の家格となっている。

経歴 編集

※日付=旧暦

  • 1259年正元元)4月7日、従五位下に叙し、弾正少弼に任官。7月27日、左馬権頭に遷任。
  • 1265年文永2)6月11日、幕府の引付衆と就る。
  • 1266年(文永3)、引付衆退任。
  • 1269年(文永6)、引付衆再任。
  • 1276年建治2)3月、評定衆に異動。
  • 1277年(建治3)5月18日、越後守に遷任。8月29日、三番引付頭人を兼帯。
  • 1280年弘安3)11月4日、駿河守に遷任。
  • 1281年(弘安4)、三番引付頭人から一番引付頭人に異動。
  • 1283年(弘安6)4月16日、連署に異動。7月20日、従五位上に昇叙。駿河守如元。9月26日、正五位下に昇叙。駿河守如元。
  • 1284年(弘安7)8月8日、陸奥守に転任。
  • 1287年(弘安10)6月18日、出家。6月26日、卒去。享年47。法名:普恩寺全念。また、鑑忍。

参考文献 編集

関連項目 編集