智勝院

日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性

智勝院(ちしょういん、天正3年(1575年) - 慶長12年5月3日1607年6月26日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。父は名古屋因幡守。母は養雲院。法名は智勝院殿月桂宗清大禅定尼。実名はお岩。兄弟に名古屋山三郎金森可重室、小沢彦八(森家臣)室、各務藤兵衛(森家臣)室など。

生涯編集

名古屋因幡守の父は織田信長の父・信秀室の兄弟にあたり、因幡守は信長とは従兄弟であるという[1]。因幡守は信長に仕えたのち、信包に1000石で仕えるも、信包の改易で豊臣秀吉から知行を受けることとなったが、後に病死したという[1]

母の養雲院(木下雅楽助の姉妹)はねね(のちの高台院)に読み書きを教えており、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)との縁組の際、夫の因幡守が「藤吉は唯人ではないので(ねねを嫁に)おやりになりませ」とねねの父に指示し、信長にも秀吉のことを執り成したという[1]

いつごろかは不明だが、お岩は豊臣秀長の嫡男、小一郎に嫁ぐ。その後、小一郎は病気のためか紀州十津の湯に入ったが、そこで亡くなった。お岩はそのまま秀長の養女となった。

文禄3年(1594年)の春、森忠政と再婚し忠政の継室となった。秀吉から忠政に鎌倉一文字助真の刀が送られたという。お岩は忠政との間に2男3女をもうけた。その縁で兄の山三郎が忠政の家臣となり、2人の姉妹も忠政の家臣の室となった。

慶長12年5月3日(1607年6月26日)に33歳で死去し、龍雲寺(現在の本源寺)に葬られた。お岩の初盆津山の桶屋町、吹屋町からお岩の墓所まで灯明が灯され万灯会が行われた。その翌年には吉井川を挟んで川向こうからも灯明が灯され、夫の森忠政の50回忌である天和3年(1683年)まで76年間毎年続けられたという[1]

子女編集

  • お宮:慶長3年(1598年)に金山で生まれる。姉のお松(母は忠政先室の中川清秀娘のチボ)は池田長幸正室となったが亡くなってしまったため、継室として嫁いだ。祖母である養雲院の京都四条の屋敷を譲り受けたため、四条殿と呼ばれていたという。娘のお鶴は森家を継いだ従兄弟の森長継と婚姻した。
  • お菊:慶長5年(1600年)に川中島で生まれる。慶長18年(1613年)に池田忠継と家康の命で婚姻したが、次の年に忠継が疱瘡で死去したため元和7年(1621年)に鳥居忠恒に再嫁した。
  • 虎松:慶長7年(1602年)に川中島で生まれる。慶長17年(1612年)7月13日に9歳[2]で亡くなったという。
  • 森忠広:慶長9年(1604年)に津山の院庄で生まれる。森忠政の嫡男であり、寛永3年に前田利常の娘である亀鶴姫徳川秀忠の孫娘)と婚約したが、亀鶴姫が数年で死去し、寛永10年(1633年)8月22日に忠広も亡くなったため、父の跡を継ぐことはなかった。
  • お兼:慶長11年(1606年)に津山で生まれる。元和8年(1622年)11月に本多忠義と婚姻した。忠広が死去したため、忠政は外孫から養子を取ることになり、お兼の長男でまだ幼児の唐之助(のちの本多忠平)を貰おうとしたが、親友の細川忠興と相談し、森家と通婚関係にあった関成次の長男・家継(のちの森長継)を養子とした。

逸話編集

森家では1年の終わりの歳暮の日に”きらず粥”を食べる習慣があるが、これはお岩が勧めて始めたことだという。きらずというのはおからの別名で、包丁を使わずに調理出来る食品であることから付いた名称だが、お岩は夫の忠政が自分や家臣の手を問わず、少なからぬ人を成敗してきたことを憂慮し「今年は幸い人を斬らずに済んだ。来年もまた斬らずに済むように」との祈りを込めた行事だったという[3]

脚注編集

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  1. ^ a b c d 『森家先代実録』 
  2. ^ 生年と享年の辻褄が合わないが、本来は忠広と同じ慶長9年生まれで、双子であることを秘密としたため9歳と記したのではないか、というのが古老の言い伝えだという。『森家先代実録』
  3. ^ 『津山市史』