曹 嶷(そう ぎょく、? - 323年)は、中国五胡十六国時代の人物。東萊郡の人。青州で独立勢力を形成し、前趙後趙東晋と様々な国家に服属しながら12年にわたって割拠した。

生涯 編集

306年、妖賊の劉柏根が東萊郡惤県で挙兵すると、曹嶷はこれに身を投じた。307年、劉柏根が王浚により敗死すると、長史の王弥は敗残兵を連れて漢(後の前趙)の劉淵に帰順した。この時、曹嶷は王弥の左長史に任じられた。

309年12月、王弥は曹嶷を安東将軍に推挙し、彼に青州を攻略させるよう上奏すると、劉淵はこれを許可した。こうして曹嶷は5千の兵と宝物を携えて青州に向かい、流民の招集と共に王弥の一族を迎えいれるよう命じられた[1]。曹嶷は青州に赴くと梁の地方へ侵攻して東平琅邪を占領し臨淄城を陥落させ、後に青州刺史に任じられた。しかしこの間に曹嶷を呼び戻して自立を目指していた王弥は、対立していた将軍の石勒に暗殺されてしまった。

曹嶷は前趙朝廷への貢物を絶やすようになり、徐々に朝廷と距離を取るようになり、やがてかつて斉国が栄えた土地で王となる野心を抱いた。 石勒は漢の皇帝劉聡に曹嶷討伐を求めたが、石勒の勢力は既に漢国の統治を脅かす程強大であったため、劉聡は警戒して許可しなかった。そのため方針を変えた石勒は曹嶷へ修好の使者を派遣し、両者は同盟を結んだ。また317年6月には西晋の残党勢力との結び付きを得るため、晋王司馬睿に書を送り、皇帝への即位を勧めた。

司馬睿が即位し東晋が成立すると、曹嶷は平東将軍・青州刺史に任じられ、広饒侯に封じられた。また同時期に石勒からも征東大将軍・青州牧・琅邪公の地位を与えられ、曹嶷は東晋を奉っていたが、建業は遠く離れていたため、石勒の襲撃を恐れて臣従を続けた。またこの時期、苟晞により東萊郡太守に任じられていた鞠彭と、幾度となく会戦を繰り広げた。曹嶷の勢力は鞠彭を上回っていたが、鞠彭はよく人心を得ていたため、なかなかこれを滅ぼせなかった。しかし鞠彭は曹嶷と争うのは得策ではないと思い、彼に降伏しようとした。配下の者は曹嶷を信用しておらず、鞠彭に献策し、曹嶷との決戦の準備をした。鞠彭は一つとして進言を容れず、ただ数千人を連れ、堂々と海を北に渡り、曹嶷へ東萊の地を譲り渡した。

323年、石勒は曹嶷の勢力がこれ以上拡大するのを恐れ、彼を討伐することを決めた。石虎を大将として4万の騎兵を与えて青州へ向かわせると、曹嶷は海中の根余山(現在の崑嵛山)に逃れて兵力を保とうと考えたが、病の為実行できなかった。曹嶷は配下の羌胡軍を黄河の西に駐屯させたが、征東将軍石他に撃破された。石虎が兵を進めて広固を包囲すると、東萊郡太守の劉巴・長広郡太守の呂披が郡ごと降った。左軍将軍石挺が軍を広固に進めると、曹嶷はついに降伏した。石虎に襄国へ送られると、石勒は曹嶷を殺害し、配下の三万人を穴に埋めて殺した。石虎は男女七百人を広固に留めると、劉徴にこの地を支配させた。 これにより、青州の諸郡県や砦は、全て後趙の支配下となった。

子孫 編集

孫に曹巌という人物がおり、356年に鞠彭の子である、前燕の東萊郡太守鞠殷と面会している。また、鞠彭自身からも車馬衣服を贈られている。

広固城について 編集

曹嶷が築いた広固城は堯王山の南に位置し、西には繞陽河が流れている。四方を谷に囲まれ、堀は深く水が阻み、守るに易く攻めるに難い地であったことから、兵家必争の地となった。『大きな谷が甚だ広がっており、それによって固を為している』という事から広固城と称されるようになったという。広固城は臨淄城に代わって青州の治所となり、やがて山東における政治の中心となった。また、港湾の発展に伴い、経済においても重要な都市となった。

逸話 編集

311年、曹嶷は乱を起こして各地を荒らしており、高平にまでその勢いは及んでいた。高平を守っていた張栄は、村の住民に命じて自警させ、あちこちに砦を築いて自ら守らせた。ある夜、山上で火事が発生すると、煙や炎が高く舞い上がった。さらに、馬の蹄音や武具の物音が騒がしく聞こえてきたので、住民たちは曹嶷が攻め寄せてきたかと思い身構えた。張栄は迎え撃とうとして軍を率いて山へ向かったが、山中に人影は全くなかった。ただ、無数の火の粉が飛来しており、鎧や馬のたてがみに燃え移るので、皆驚いて逃げ戻った。翌日になり再び山を捜索してみたが、どこにも火を焚いたような痕跡はなかった。そこには、100人ほどの朽ち果てた骸が散乱していたという。

脚注 編集

  1. ^ 本文の記述は『資治通鑑』に準拠しているが、『晋書』王弥伝では、311年6月の洛陽を陥落させた後に曹嶷を青州に派遣することとなっている。また、推挙されたのは安東将軍ではなく鎮東将軍であり、齟齬が生じている。

参考文献 編集

  • 晋書』巻5・帝紀第5、巻6・帝紀第6、巻61・列伝第31、巻63・列伝第33、巻100・列伝第70、巻102・載記第2、巻104・載記第4
  • 資治通鑑』巻086-092