曽ヶ端準

日本のサッカー選手

曽ヶ端 準(そがはた ひとし、1979年8月2日 - )は、茨城県鹿嶋市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションゴールキーパー。元日本代表

曽ヶ端 準
名前
愛称 鹿島の守護神、ソガ、ソガさん
カタカナ ソガハタ ヒトシ
ラテン文字 SOGAHATA Hitoshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1979-08-02) 1979年8月2日(44歳)
出身地 茨城県鹿嶋市
身長 187cm
体重 80kg
選手情報
ポジション GK
利き足 右足
ユース
1986-1991 波野サッカー少年団
1992-1994 鹿嶋市立鹿島中学校
1995-1997 鹿島アントラーズユース(鹿島高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998-2020 鹿島アントラーズ 533 (0)
代表歴2
2001-2003[1] 日本の旗 日本 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2020年12月24日現在。
2. 2003年9月10日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

現役時代は鹿島アントラーズ一筋でプレーした。2002 FIFAワールドカップのメンバー。

来歴 編集

クラブ 編集

1998年鹿島アントラーズアカデミーからトップチーム昇格の形で入団(同期入団は小笠原満男中田浩二本山雅志山口武士中村祥朗)。2001年、当時の正GK高桑大二朗に替わり、レギュラーに定着。以後、正GKとして活躍していた。

2012年3月31日のJ1第4節・横浜M戦でクラブ公式戦通算最多出場(475試合)、8月18日のリーグ・浦和戦でリーグ戦クラブ最多出場(360試合)、同月25日のリーグ・新潟戦でクラブ公式戦通算500試合をそれぞれ達成した。

2013年7月31日のJ1第18節・名古屋戦で、国内3大大会通算500試合を達成した。

2014年4月12日のJ1第7節・新潟戦で、リーグ戦217試合連続出場を達成。元FC東京などに在籍していた土肥洋一が保持していた出場記録を更新した[2]

2015年3月8日、1stステージ第1節でベンチ入りしたものの出場機会がなかった(佐藤昭大が先発フル出場)ため、2007年10月20日のジュビロ磐田戦から続いていた連続フルタイム出場試合数のJリーグ記録が「244」で止まった。しかし本人は「記録の為にプレーしているわけではない。」と一切動じなかった。負傷やミスなども重なり、シーズンは24試合の出場にとどまり、一時は佐藤にポジションも譲ったがトニーニョ・セレーゾから石井正忠に監督が代わるとレギュラーに復帰した。

2016年シーズンに、同期の本山雅志ギラヴァンツ北九州へ完全移籍したため、クラブ史上最長在籍(19シーズン)を記録した。FIFAクラブワールドカップ2016では守護神として決勝進出に貢献した。

2017年は韓国代表のクォン・スンテが加入し、開幕直後はレギュラー争いで敗れるもシーズン後半からレギュラーを勝ち取った。4月16日、第7節のベガルタ仙台戦でJ1通算500試合を達成した[3]

2018年シーズンは、再びスンテにレギュラーを奪われるも、JリーグとACLがあり過密日程の中で試合が組まれており、スンテが試合に出場しない際には、スタメンでゴールを守り、出場機会が減る中でも大岩剛監督から「頼りになる」と評価されている[4]ACL決勝では、出番が無かったもののベンチ入りし、鹿島初のACL優勝を経験した。2019シーズンは完全にスンテがポジションを奪ったためリーグ戦出場は4試合に留まった。

2020シーズンは若手の沖悠哉がレギュラーに定着したこともあって、第3GKに降格し、この年のリーグ戦は1試合のみの出場に留まった。同年12月24日、現役引退を発表[5]。23年間の長い現役生活に幕を閉じた[6]

代表 編集

ユース代表として、AFC U-19選手権(1998年、タイ)に参加。

2000年からフィリップ・トルシエ監督が率いるA代表としてプレー。国際Aマッチデビュー戦となったイタリア戦では川口能活楢﨑正剛の怪我により出番が回ってきた格好となったが、落ち着いたプレーを披露し高い評価を得た。2002年日韓W杯メンバーとして選ばれるも控えに終わった。アテネオリンピックでは山本昌邦五輪監督から小野伸二と共にオーバーエイジ枠で招集されたが、直前の強化試合で致命的なミスから失点すると本大会でも安定感を見せられず3試合で7失点を喫した。

以後、代表選出からは遠ざかっていたが、2010年10月9日川島永嗣の負傷により日本代表に追加招集された[7]

プレースタイル 編集

シュートやクロスへの反応が速く、見切りを行うことで不要な動作はせず、次に備える。また、キックやスローイングも正確で鹿島のカウンター攻撃発動の起点となる。コーチングにも優れる[8]。尚、コーチングをよく行うのはチームメイトのためだけでなく、自分自身の集中力を切らさないためでもあるという[9]

所属クラブ 編集

ユース経歴
プロ経歴

個人成績 編集

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1998 鹿島 29 J 0 0 0 0 0 0 0 0
1999 28 J1 4 0 0 0 0 0 4 0
2000 2 0 3 0 1 0 6 0
2001 21 21 0 6 0 2 0 29 0
2002 30 0 3 0 5 0 38 0
2003 30 0 5 0 4 0 39 0
2004 27 0 6 0 3 0 36 0
2005 34 0 4 0 3 0 41 0
2006 22 0 3 0 4 0 29 0
2007 32 0 10 0 5 0 47 0
2008 34 0 2 0 2 0 38 0
2009 34 0 2 0 4 0 40 0
2010 34 0 2 0 6 0 42 0
2011 34 0 3 0 3 0 40 0
2012 34 0 9 0 4 0 47 0
2013 34 0 6 0 3 0 43 0
2014 34 0 5 0 1 0 40 0
2015 24 0 5 0 0 0 29 0
2016 34 0 2 0 6 0 42 0
2017 23 0 1 0 3 0 27 0
2018 7 0 4 0 3 0 14 0
2019 4 0 1 0 4 0 9 0
2020 1 0 1 0 - 2 0
通算 日本 J1 533 0 83 0 66 0 682 0
総通算 533 0 83 0 66 0 682 0

その他の公式戦

  • 2001年
  • 2002年
  • 2008年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2009年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2010年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2011年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2016年
    • Jリーグチャンピオンシップ 3試合0得点
国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
AFCACLクラブW杯
2002-03 鹿島 21 0 0 -
2008 8 0 -
2009 7 0 -
2010 7 0 -
2011 7 0 -
2015 6 0 -
2016 - 4 0
2017 1 0 -
2018 4 0 1 0
2019 1 0 -
通算 AFC 41 0 5 0

その他の国際公式戦

出場歴

指導歴 編集

  • 2021年 -   鹿島アントラーズ
    • 2021年 - 2022年 トップチーム GKアシスタントコーチ
    • 2023年 - ユース GKコーチ

タイトル 編集

クラブ 編集

鹿島アントラーズ

個人 編集

代表歴 編集

出場大会 編集

試合数 編集

  • 国際Aマッチ 4試合 0得点 (2001年 - 2003年)[1]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2001 1 0
2002 1 0
2003 2 0
2010 0 0
通算 4 0

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集