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造船疑獄により逮捕を受ける日の朝(1954年2月)

有田 二郎(ありた じろう 1904年7月1日 - 1980年10月28日)は、昭和期の政治家実業家。名村汽船取締役。

経歴編集

有田ドラッグを経営し言論活動でも名を馳せた有田音松の次男として生まれる。東京帝国大学倫理科を卒業し、大阪薬学専門学校講師・終戦連絡大阪事務局参与などを歴任。1946年総選挙日本自由党公認で初当選、その後民主自由党自由党に所属し当選5回(大阪1区)。衆議院運輸・人事委員長や民主自由党総務・自由党副幹事長を歴任し、第3次吉田内閣では商工政務次官通産政務次官を務めた。1953年の国会予算審議では、右派社会党堤ツルヨ議員から「断末魔の自由党」と野次られたのに対して「パン助だまれ」と応え、女性蔑視の暴言として問題になった(1953年8月2日読売新聞』)。

造船疑獄の発覚から、1954年2月16日に国会法第33条に基づく逮捕許諾請求が行われ 同23日に衆議院本会議は3月3日までの期限付の逮捕許諾決議が可決されて逮捕された[1]。裁判では懲役2年執行猶予3年の有罪が確定した[2]

造船疑獄で立件されたことが響いて、有田は1955年総選挙で落選。1958年総選挙1960年総選挙でも政界復帰を果たせず、その後は政界から遠ざかっていたが、1977年参院選で私学振興を訴えて全国区に出馬。 だが、33,702票しか得票できず落選に終わっている。

脚注編集

  1. ^ 『戦後政治裁判史録2』324頁。
  2. ^ 『戦後政治裁判史録2』333-335頁。

参考文献編集

  • 田中二郎、佐藤功、野村二郎編『戦後政治裁判史録2』第一法規出版、1980年。

関連項目編集