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有馬忠頼

江戸時代初期の大名。久留米藩第2代藩主

有馬 忠頼(ありま ただより)は、筑後久留米藩の第2代藩主。久留米藩有馬家3代。

 
有馬忠頼
時代 江戸時代前期
生誕 慶長8年(1603年
死没 承応4年3月20日1655年4月26日
改名 吉法師(幼名)、忠郷(初名)、忠頼
戒名 瓊林院殿龍室道雄大居士
墓所 梅林寺久留米市
官位 従四位下、侍従、中務大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
筑後久留米藩
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬豊氏、母:蓮姫(長寿院/松平康直娘・徳川家康養女)
兄弟 忠頼信堅頼次
正室:西尾忠永の娘・福寿院酒井忠世の養女)
側室:磯部氏(養寿院)、神保氏(貞昌院)
頼利頼元、長(稲葉景通正室)、
留理(山内豊定正室)、娘(有馬重之室)、
養子:豊祐

経歴編集

慶長8年(1603年)、初代久留米藩主(当時は丹波福知山藩主)有馬豊氏の次男として生まれる。慶長18年(1613年)、江戸城元服し、将軍・徳川秀忠から偏諱を与えられて忠郷と名乗った(のちに忠頼と改名する)。このときに従四位下、中務大輔に叙任されている。寛永14年(1637年)には父に従って島原の乱にも参加した。寛永19年(1642年)の父の死去により家督を継ぐ。

藩政においては寛永20年(1643年)から生葉郡星野村の金山開発を行い、さらに外国船の到来などに備えて水軍を創設し、治水工事を行い、学問を奨励するなどして藩政の基礎固めに務めた。

しかし性格に粗暴かつ冷酷な一面があり、その面での逸話も事欠かない。例えば西本願寺の宗徒があるとき、忠頼に対して無礼なことをした。すると忠頼は領内における寺社に対して西本願寺から東本願寺への転派を強要し、それに従わない寺社は次々と潰していった。また、百姓に対しては年貢を厳しく取り立てる重税を行い、家臣に対しても冷酷で残忍な態度で当たることが少なくなかった。さらに実子に恵まれず、養子として豊祐を迎えていたが、実子の頼利が生まれると末子として事実上、廃嫡に追い込んだりしている。

承応4年(1655年)3月20日、参勤交代で乗船中に病気に倒れて死去した。享年53。ただし、日頃から忠頼につらい仕打ちを受けて耐えかねていた小姓の兄弟が忠頼を恨み、忠頼が洗顔中に背後から斬殺したという逸話も残っている。

跡を長男の頼利が継いだ。