朝倉宣正
朝倉 宣正(あさくら のぶまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣で、徳川忠長の御附家老となった。遠江掛川城主であったが、あくまで忠長の家老という立場であったため、幕府からは正式な大名として認められていなかった。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正元年(1573年) |
死没 | 寛永14年2月6日(1637年3月2日) |
改名 | 藤十郎(幼名)、宣正 |
別名 | 宣政 |
官位 | 従五位下、筑後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠、忠長 |
藩 | 駿府藩御附家老 |
氏族 | 朝倉氏 |
父母 | 朝倉在重、末高正長娘 |
兄弟 | 宣正、在重?、景年 |
妻 | 昌清尼 |
子 |
牧野儀成室、宣親、正世、宣季、 屋代忠興、正高、伊東祐豊継室、 加藤明利正室 |
生涯
編集天正元年(1573年)、朝倉在重の長男として駿河国安倍郡柿島で生まれる。
天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川家康に従って参加し、このときに家康の命令で徳川秀忠付の家臣となり、200石を与えられ、大番に任じられた。慶長5年(1600年)の上田合戦で、鎮目惟明、戸田光正、斎藤信吉らとともに上田七本槍の一人に挙げられる活躍をしたが、軍規違反を問われ、のちに許された。
慶長7年(1602年)に100石を、慶長9年(1604年)に大番組頭に任じられ200石を加増される。慶長16年(1611年)にも200石を加増、さらに慶長18年(1613年)には堺奉行を務め1000石を加増された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣で江戸城守備を命じられ、戦後に1000石を加増。元和3年(1617年)12月に従五位下・筑後守に叙位・任官する。
元和5年(1619年)に3000石、元和7年(1621年)に4000石を加増されて合計1万石の大名となり、同時に秀忠の命令で忠長の附家老に任じられた。元和8年(1622年)に6000石を加増され、元和10年(1624年)1月11日に1万石を加増されて2万6000石の掛川城主となる。
しかし忠長が蟄居となり、寛永8年(1631年)4月、宣正も忠長に諫言しなかったとして、上野板鼻藩藩主酒井忠行にお預けとなる。この時、徳川頼宣らに忠長の赦免の斡旋を願い一旦は許されて、忠長とともに駿河に戻ったが、寛永9年(1632年)、主君である忠長が幕命により改易されると、連座により大和郡山藩藩主松平忠明にお預けの上、改易となった。その後、許されて妻の兄である土井利勝に招かれた。
寛永14年(1637年)2月6日、大和郡山で死去した[1]。享年65。
四男に屋代家の養子に入った屋代忠興がおり、三男・宣季の子が忠興の養子となり屋代忠位を名乗ったが、万石騒動により改易となった。末子の正高の子孫は320石の旗本として存続している。他の子孫に古河藩主土井家の家臣となった者がいるほか、江戸時代初期に江戸町奉行を務めた人物に、父親と同じ名前を持つ在重がいるが、これは宣正の子もしくは弟であるとされる。
系譜
編集登場作品
編集脚注
編集- ^ 東京大学史料編纂所 1963, p. 151.