朝倉等泉

江戸時代の画家

朝倉 等泉(あさくら とうせん、元文13年(1737年)- 明和4年(1767年7月)は、江戸時代の人物。徳山藩御用絵師

朝倉家は代々徳山藩に御用絵師として仕え、等泉はその3代目に当たる。二代・朝倉等月の長男。名は友明。甚八と称し、等栄、等泉と号する。浪人時は桜井助左衛門春祥と名乗った。

雲谷派雲谷等徴に師事する。宝暦8年(1758年3月27日、父・等月が家柄断絶となったことで、等泉は櫛ヶ浜へ移り住んだ。明和3年(1766年12月15日、家の再興を許され、三人扶持を下され再び徳山藩に絵師として召し抱えられたが、明和4年7月に31歳で没する。家督は聟養子の朝倉南陵が継いだ。