朝比奈宗源

臨済宗の禅僧

朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗禅僧臨済宗円覚寺派管長、円覚寺住職、日本を守る会代表委員[1]

朝比奈宗源

人物 編集

 
東京・新川(霊岸島)にある和菓子店の梅花亭には宗源によって書かれた看板が掲げられている[2][3]

静岡県清水市(現在の静岡市清水区[4])出身。鎌倉円覚寺住職。臨済宗円覚寺派管長。『水戸黄門』、『大岡越前』など、時代劇の題字を手がけたことでも知られている。オープニングやエンディングにも「題字 朝比奈宗源」とクレジットされている。

32歳の時に日本大学宗教専門部(現存しない)卒[5]。京都妙心寺、鎌倉円覚寺で修行。1942年、円覚寺住職1945年、円覚寺派管長。1963年賀川豊彦尾崎行雄らと世界連邦運動推進のため世界連邦日本仏教徒協議会(世連仏)を結成、会長となった。

教育では、1934年1942年まで横濱専門学校(現神奈川大学)で倫理学講師を担当、高歯の下駄で鎌倉から通った。

1936年2月26日朝(二・二六事件)、一時間目の授業に教壇に立つや「今朝、軍の暴徒が首相始め高官達を襲って暗殺したらしい。こんなことを許していては日本は滅びてしまう」と横濱専門学校の学生に言ったと伝わる[要出典]。その後、駒澤大学教授。

大戦中は中国や南方で従軍布教をした。

1945年、広島に原爆が投下されるや、木戸幸一内府や平沼騏一郎らに終戦決断を迫ったとされる[要出典]

1973年、朝比奈と富岡八幡宮宮司の富岡盛彦伊勢神宮の宿舎で同宿した際、「保守系の宗教団体が集結し愛国運動を起こす」という着想を得た。明治神宮宮司の伊達巽から、協力についての快諾の回答が得られたあと、朝比奈と富岡は初めに、渋谷区神宮前にあった生長の家本部を訪ねた。総裁の谷口雅春は「協力を惜しまないどころか、生長の家の活動そのものの目指すところはそこにある」と述べ、団体設立に向けた動きが具体化[6][7]。1974年4月に民間団体「日本を守る会」が設立され[6]、朝比奈は谷口らとともに代表委員に名を連ねた[1]

1979年8月25日、死去。日本を守る会は1997年5月30日に日本を守る国民会議と合併し、「日本会議」に改組された。

著書 編集

  • 『欧米雲水記』四季社 1955
  • 碧巌録講話』河出書房 1957 現代聖典講話
  • 無門関提唱』山喜房佛書林 1957
  • 『仏心』春秋社 1959
  • 『しっかりやれよ』筑摩書房 1971 現代を生きる心
  • 『若い人への手紙』木耳社 1975
  • 『覚悟はよいか』PHP研究所 1978
  • 『朝比奈宗源老師の獅子吼』春秋社 1981
  • 『仏心に生きる』円覚寺仏心会編 春秋社 1989
  • 『人はみな仏である 白隠禅師坐禅和讃・一転語』春秋社 2011
  • 『皇民道徳宝典』編 巌松堂書店 1940

訳注 編集

  • 義玄『臨済録』訳註 岩波文庫、1935、のち改版、一穂社 
  • 圜悟『碧巌録』訳註 岩波文庫(上下)、1937、のち改版 

脚注 編集

  1. ^ a b 藤生 2018, p. 140.
  2. ^ 宮田 1953, p. 32.
  3. ^ 「江戸楽」編集部 2021, p. 101.
  4. ^ 朝比奈 宗源”. www.shunjusha.co.jp. 春秋社. 2022年12月26日閲覧。
  5. ^ 朝比奈宗源”. ryubin.com. 2022年12月26日閲覧。
  6. ^ a b 澤渡盛房「立派だった先賢の一言 日本を守る会誕生記」 『祖国と青年』1985年8月号、日本青年協議会、41-43頁。
  7. ^ 寺田喜朗. “日本会議と創価学会 安倍政権を支えるコミュニティ”. 公益財団法人 国際宗教研究所. 2023年12月6日閲覧。

参考文献 編集

  • 宮田重雄 著、読売新聞社会部 編『味なもの』現代思潮社、1953年6月。 NCID BN15317243全国書誌番号:53005234 
  • 藤生明『徹底検証 神社本庁 ―その起源から内紛、保守運動まで』筑摩書房ちくま新書〉、2018年10月4日。ISBN 978-4480071767 
  • 「江戸楽」編集部『和菓子のひみつ : 楽しみ方・味わい方がわかる本 : ニッポンの菓子文化超入門』メイツユニバーサルコンテンツ、2021年12月、101頁。ISBN 978-4-7804-2568-0全国書誌番号:23631405 

関連項目 編集