木下廣信

明治時代の京都の画家

木下 廣信(きのした ひろのぶ、弘化元年1月14日1844年3月2日〉 ‐ 没年不明)とは、明治時代京都画家

来歴 編集

明治17年(1884年)刊の『第二回内国絵画共進会 出品人略譜』などによれば鈴木広貞の門人、のち幸野楳嶺を師とする[1]。木下源太郎という人物の息子で日峯と号し、京都府下京区西之町に住む。元治元年(1864年)から広貞に絵を学ぶという。廣信というのは画名ではなく本名と見られる。龍池会に所属し、明治15年と明治17年の内国絵画共進会に出品し、いずれも褒状を得、また明治17年の第二回巴里府日本美術縦覧会にも絵を出品している。明治24年(1891年)の『古今博識一覧』には、「現存日本画人名一覧流派早見一覧」に「木下廣信」の名があり、この頃まで存命だったと知られるが没年は不明である。

脚注 編集

  1. ^ 浮世絵師伝』は「初代広信門人」であるとし、「大阪の人、木下氏、日峰、柳塘、芦水家等の号あり、初名を広国といふ、明治十七年絵画共進会にて受賞せり」とあり、『原色浮世絵大百科事典』第2巻85頁にある「広信(二代)」の来歴も、この『浮世絵師伝』の記述をほぼ受け継いだものとなっている。

参考文献 編集