木下廣信
明治時代の京都の画家
来歴 編集
明治17年(1884年)刊の『第二回内国絵画共進会 出品人略譜』などによれば鈴木広貞の門人、のち幸野楳嶺を師とする[1]。木下源太郎という人物の息子で日峯と号し、京都府下京区西之町に住む。元治元年(1864年)から広貞に絵を学ぶという。廣信というのは画名ではなく本名と見られる。龍池会に所属し、明治15年と明治17年の内国絵画共進会に出品し、いずれも褒状を得、また明治17年の第二回巴里府日本美術縦覧会にも絵を出品している。明治24年(1891年)の『古今博識一覧』には、「現存日本画人名一覧流派早見一覧」に「木下廣信」の名があり、この頃まで存命だったと知られるが没年は不明である。
脚注 編集
参考文献 編集
- 農商務省博覧会掛編 『第二回内国絵画共進会 出品人略譜』 国文社、1884年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。114コマ目。
- 農商務省博覧会掛編 『第二回内国絵画共進会 褒賞授与人名表』 国文社、1884年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。9コマ目。
- 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 ※85頁
- 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史』(第一巻下 資料編) 日本美術院、1989年 ※「第二回巴里府日本美術縦覧会記事」(453頁)