木村 謙次(きむら けんじ、1752年宝暦2年〉 - 1811年8月24日文化8年7月6日〉)は、江戸時代後期の学者、探検家

ないし謙次郎[1]。字は子虚、号は礼斎、酔古堂、酔古山館。

来歴編集

常陸国久慈郡天下野村にて、農家の4男として生まれる。立原翠軒から儒学を、吉益東洞からは医術を学んだほか、農政学にも通じていた[1]

1793年寛政5年)、水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げたほか、江戸では大黒屋光太夫関連のロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆した[1]

1798年(寛政10年)、近藤重蔵の蝦夷地探検に「医師・下野源助」として同行し、旅の様子を『蝦夷日記』にしたためる。択捉島タンネモイに建てられた木標「大日本恵登呂府」の文字は木村が書いたといわれ、そのほか近藤の書と伝えられる物の中にも、実は木村の手になる物が少なくないとされる[1]

脚注編集

  1. ^ a b c d 伊藤 2008, p. 129.

参考文献編集

  • 伊藤孝博『北海道「海」の人国記』無明舎出版、2008年7月30日。ISBN 978-4-89544-478-1