木舟城
木舟城(きふねじょう)は、富山県高岡市福岡町木舟にあった日本の城(平城)。木船城、貴船城とも書く。県史跡。
木舟城 (富山県) | |
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![]() 木舟城本丸跡と石碑 | |
別名 | 木船城、貴船城 |
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 石黒光弘 |
築城年 | 元暦元年(1184年) |
主な城主 | 石黒氏、吉江宗信、佐々平左衛門、前田秀継、利秀 |
廃城年 | 天正14年(1586年) |
遺構 | なし |
指定文化財 | 富山県指定史跡 |
位置 |
富山県高岡市福岡町木舟 北緯36度41分17.7秒 東経136度54分50.3秒 |
地図 |
規模編集
主郭の北と南にも郭を構え、三重の堀に囲まれていた。更に周囲は湿地帯であった。城下町は東西1.2km、南北1km程度であったとみられる。
歴史編集
- 文明13年(1481年)8月、越中国福光城主石黒光義が医王山惣海寺と組んで越中一向一揆勢の瑞泉寺門徒らと戦うが敗退(田屋川原の戦い)。光義ら一族は安居寺で自害し石黒氏本家が衰退。その後徐々に木舟石黒氏が勢力を強める。
- 天正5年(1577年)12月23日に書かれたとみられる『上杉家家中名字尽』に石黒左近蔵人(成綱)の名が見える。
- 天正8年(1580年)2月、天正9年(1581年)4月と2度にわたって一向一揆勢の重要拠点で当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させているが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされた。因みに同年7月、成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されたが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡している(成綱の子は後に加賀藩に仕えている)。
- 同年8月、豊臣秀吉の北国征伐(富山の役)により成政が降伏(なお、この時に成政は大した抵抗もせずに降伏したと云われているが、成政軍の一部が木舟城辺りで夜討ちを仕掛け、前田軍に数十人の死傷者が出たという記述も在る。成政降伏後に前田軍が慰霊祭を行ったとされるが、その時の死者に対して行なわれたものと思われる)。木舟城は前田氏の支配下に入り、前田利家の末弟である秀継が城主となって4万石を与えられた。
- 同年11月、天正大地震発生。これにより城の地盤が三丈(約9m)も陥没。木舟城は倒壊して秀継夫妻は多くの家臣等と共に圧死した。遺体が見つかったのは3日も後の事だったと云う。また城下も壊滅的な打撃を受けた。遺領は秀継の子である利秀が継いで木舟城に入った。
現在編集
僅かに残る土塁と後年建てられた石碑のみである。小矢部市との市境に接する立地条件ゆえ、その周辺はのどかな散居村に囲まれている。
石黒成綱が防衛と物資補給の基地として下屋敷を構えていた場所に宝性寺が建っていたが、その庭園は下屋敷時代のものであるとされ、「左近の庭」と名付けられている。
参考論文編集
- 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」」『日本海域研究所報告』8号、1976年。
- 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第2報 両城主の家系図の検討―」『日本海学会誌』1号、1977年。
- 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第3報 内ヶ島系図と石黒氏系図の研究―」『日本海域研究所報告』9号、1977年。
- 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第4報 内ヶ島氏および石黒氏の家臣達―」『日本海学会誌』2号、1978年。
- 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第5報 両城主と一向一揆―」『日本海域研究所報告』10号、1978年。
- 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第6報 両城主をめぐる地震の被害、震度分布、余震等について―」『日本海学会誌』3号、1979年。
- 安達正雄「越中木舟城主・前田秀継の信仰について」『石川郷土史学会々誌』38号、2005年。
- 福岡町教育委員会編 『戦国の終焉:よみがえる天正の世のいくさびと:木舟城シンポジウム解説図録』、2002年。
- 福岡町教育委員会編 『木舟城跡発掘調査報告 : 範囲確認調査報告』、2002年。
- 越前慎子「木舟城跡周辺の遺跡にみられる地震痕跡」『古代学研究』158号、2002年。
- 木舟城シンポジウム実行委員会編 『戦国の終焉:よみがえる天正の世のいくさびと:木舟城シンポジウム開催記』 六一書房、2004年。