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東光山 本覚寺(とうこうさん ほんがくじ)は、秋田県仙北郡美郷町六郷字東高方町に所在する浄土宗寺院。栃木県芳賀郡益子町に所在する大沢山円通寺の末山で、寺伝では、もと天台宗の寺院であったが、弘治3年(1557年)、常蓮社等誉によって浄土宗に改宗されたと伝わる[1][2]

本覚寺
RokugoHongskujiTemple.JPG通用門からみた楼門
所在地 秋田県仙北郡美郷町六郷字東高方町26
位置 北緯39度25分19.1秒 東経140度32分59.1秒 / 北緯39.421972度 東経140.549750度 / 39.421972; 140.549750座標: 北緯39度25分19.1秒 東経140度32分59.1秒 / 北緯39.421972度 東経140.549750度 / 39.421972; 140.549750
山号 東光山
宗旨 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 不詳
開基 不詳
中興年 弘治3年(1557年
中興 常蓮社等誉藤光
札所等 秋田六郡三十三観音巡礼札所 第14番
文化財 本項 寺宝節 参照
地図
本覚寺 (秋田県美郷町)の位置(秋田県内)
本覚寺 (秋田県美郷町)
法人番号 7410005004337
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目次

沿革と概略編集

室町時代後半、本覚寺は寺運の衰退いちじるしい状況にあったが、天文・弘治年間(1532年-1557年)、真昼岳山麓の元本堂村藤花(美郷町千屋地区)に四国の藤光坊(とうこうぼう)こと常蓮社等誉が住んで草庵を営んだのが嚆矢といわれる[1]本堂城の城主本堂吉高が夢告によって等誉に深く帰依したことで本覚寺が再興され、吉高は本覚寺を菩提寺として田地や宝物を寄進したという[1][注釈 1][注釈 2]

一説には、本堂氏が山城であった元本堂城(浪花村)から平城である本堂城(本堂城回村)に移った際、同時に本覚寺もうつったとされる[1]三河国出身の紀行家菅江真澄も『月の出羽路仙北郡』(文政9年-12年、1826年-1829年)のなかで、本堂城主について「元本堂より本覚寺も城引き移して、天文四年の頃は領地もいや増して、いよいよ家栄えて折々出陣ありし也」と記している[注釈 3]

慶長6年(1601年)、本堂氏は徳川家康の命によって常陸国転封され、入れ替わりに常陸から佐竹氏が入部した[2]。慶長8年(1603年)、藩主義宣の父で六郷城に入った佐竹義重は近在の寺院を六郷に集めた際、本覚寺も現在地の六郷字東高方町に移転させた[1][2]。このとき檀家約60戸も寺とともに移住し、現在の六郷字本道町に居を構えたと伝えられている[1]。朱色に塗られた楼門をもつ格式の高い浄土宗寺院であり、貴重な寺宝も多い[3]。楼門の建物間口は2間、開口は1間あり、楼閣部には花頭窓が設けられており、屋根入母屋造である[4]

明治11年(1878年)にこの地を訪れたイギリス人女性イザベラ・バードは、本覚寺でおこなわれた葬儀に出くわして詳細な記録をのこしており、そのなかで未亡人とみられる女性の美しさについてふれている。

秋田県の洋画の草分け的存在である六郷の小西正太郎1876年-1956年)や酔経学舎創立、山本公園建設で知られる飯詰村江畑新之助1871年-1933年)の菩提寺でもある。

白雲と真景帖編集

 
安田田騏筆「白雲上人像」本覚寺蔵

京都東山の生まれと伝わる28世住持の白雲は、江戸幕府の老中松平定信に仕え、陸奥国須賀川の十念寺で修行した江戸時代の画僧である[5][注釈 4]南画にすぐれ、詩書を能くして陽明学を奉ずる儒学者でもあった。享和2年(1802年)に定信の菩提寺である陸奥国白河の常宣寺第22世住持となり、定信の著作『集古十種』の材料の踏査や写生に師の谷文晁とともに従事し、数々の名画をのこした[5][注釈 5]。この間、白雲は各地の風景を、秋田蘭画とはまた異なる須賀川派洋風画の手法を用いて写生したが、これが六郷本覚寺所蔵の「真景帖」である[5]。白雲は文化10年(1813年)に六郷本覚寺住職となり、晩年の12年をこの寺で過ごした[1][5]

寺宝編集

観音霊場編集

秋田六郡三十三観音霊場」第14番の札所となっている[6][注釈 8]。教円阿闍梨の巡礼歌は次のとおり。

第14番 仙北郡六郷村東光山本覚寺聖観音

「日出づるや 光も深き 藤の森 
大悲の光 本覚の寺」

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 寺伝では、和賀氏の一流が「本堂氏」を称したのは、本覚寺の本堂に由来するという。『秋田のお寺』(1997)p.289
  2. ^ 本堂吉高は寺伝では「伊賀守吉高」と記されることが多いが、石川理紀之助編集『秋田農武迦志(あきたのむかし)』収載の『秋田六郡三十三観音巡礼記』には「伊勢守吉高」と記されている。『秋田農武迦志』pp.60-61
  3. ^ 『秋田六郡三十三観音巡礼記』には、虵森院に住居した「本堂出羽守」が虵森に観音堂をつくって観音像だけをうつし「幕林観音」と称したが、本覚寺は「本堂林」にあって軍戦のときに観音像を寺へ返還したという。本覚寺は天文4年には寺領増して本堂氏菩提の寺になったとしており、本覚寺は什物として「本堂大膳(法名は覚心)」の直垂馬具太刀4降り・長刀1枝・2筋として所有する旨が記載されている。『秋田農武迦志』pp.59-60
  4. ^ 「白雲」の名は松平定信(楽翁)によって贈られたものであるといわれている。『秋田人名大事典』(2000)p.453
  5. ^ 『集古十種』は、1859点の文物を碑銘鐘銘、兵器、銅器、楽器、文房(文房具)、印璽扁額肖像書画の10種類に分類し、その寸法、所在地、特徴などを記し、文晁・白雲らの模写図を添えた書籍である。挿図には喜多武清大野文泉住吉廣行森川竹窓なども加わった。
  6. ^ 上野国の豪族安倍小水麿武蔵国比企郡慈光寺埼玉県ときがわ町)に奉納したものの1巻であると伝わる。
  7. ^ 像高75センチメートル。河内国葛井寺大阪府藤井寺市)の観世音菩薩像を模したものといわれている。『秋田のお寺』(1997)p.289
  8. ^ 「秋田六郡三十三観音霊場」は、長久年間(1040年-1043年)に横手長者森(御嶽山、塩湯彦神社)の「満徳長者」卜部保昌が出家して保昌坊と称し、西国三十三所巡礼をおこない、大仏師定朝に観音像33体をつくらせ、故郷にもどって現在の秋田県地方(雄勝郡平鹿郡、仙北郡、河辺郡秋田郡山本郡の6郡)の社寺に奉納して霊場を定めたものの、長いあいだに忘却され、荒廃してしまったとして、享保年間(1716年-1735年)に鈴木定行と加藤政貞の2名が古跡を訪ねて巡礼し、和歌も添えた巡礼記をのこしたことから、一般にも広まった巡礼所である。なお、満徳長者は出羽清原氏の一族であるといわれている。『秋田のお寺』(1997)p.395

出典編集

参考文献編集

  • 津村諦堂 「本覚寺」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4
  • 井上隆明(監修) 『秋田人名大事典(第二版)』 秋田魁新報社(編)、秋田魁新報社、2000年7月。ISBN 4-87020-206-9
  • 笹尾哲雄・伊藤武美・嵯峨稔雄ほか 『心のふる里「秋田のお寺」』 秋田魁新報社出版局(編)、秋田魁新報社、1997年5月。ISBN 4-87020-167-4
  • 南呂吉辰・嘉藤氏政貞 「秋田六郡三十三観音巡礼記」『秋田農武迦志』 石川理紀之助(編)、歴史図書社、1980年3月。