西八条禅尼

源実朝の正室、坊門信清の娘
本覚尼から転送)

西八条禅尼(にしはちじょうぜんに、建久4年(1193年) - 文永11年9月18日1274年10月19日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての女性鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝御台所正室)。

父は後鳥羽天皇の外叔父(母方の叔父)である公卿坊門信清。兄に坊門忠信坊門忠清、姉妹に西御方(坊門局、後鳥羽天皇後宮)、坊門位子(大納言局、順徳天皇後宮)らがいる。

「西八条禅尼」は出家後の通称で、法名は本覚尼(ほんがくに)。実名を信子(のぶこ)とする説が流布しているが、実際には「信子」という名は伝わっていない[1]。『尊卑分脈』において信清の妹として掲載されている「信子」と混同したものと考えられている[2]

生涯 編集

元久元年(1204年)実朝の正室となって鎌倉へ赴いた[3]。実朝との仲は良かったといわれるが、子はできなかった。建保4年(1216年)、尼御台政子の命により実朝の兄・頼家の娘(後の竹御所)を猶子に迎える[4]建保7年(1219年)に実朝が暗殺されると翌朝には出家し[5]、その後に戻った。

承久3年(1221年)5月に起こった承久の乱では、兄たちが朝廷軍として幕府と交戦し敗北。忠信は首謀者の一人とみなされ東国へ連行されたが、西八条禅尼の嘆願により死罪を免れている[6]

九条大宮の地に夫の菩提寺・遍照心院(現在の大通寺)を建立した。文永11年(1274年)9月18日に死去。享年82。

関連作品 編集

小説
  • 一色るい『源実朝の妻』甲陽書房、1986年。ISBN 978-4875311119 
  • 佐藤雫『言の葉は、残りて』集英社、2020年。ISBN 978-4-08-771697-9 
テレビドラマ

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 明月記ではこの日に京を出立したとあるが、「吾妻鏡」だと鎌倉に到着した日になっている。
  2. ^ 辰の刻(午前8時頃)の事とある。

出典 編集

  1. ^ 坂井孝一 2021, pp. 170–171.
  2. ^ 山本みなみ「公武融和のために12歳で鎌倉に下った女性 蒙古襲来前月まで長命を保った3代将軍実朝未亡人―北条義時を取り巻く女性たち6【鎌倉殿の13人 予習リポート】」”. 2022,1,19閲覧。
  3. ^ 明月記」元久元年(1204)12月10日[注釈 1]
  4. ^ 「吾妻鏡」建保4年(1216)3月5日
  5. ^ 「吾妻鏡」建保7年(1219)正月28日[注釈 2]
  6. ^ 「吾妻鏡」承久3年(1221)8月1日

参考文献 編集

  • 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏:義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版〈NHK出版新書661〉、2021年9月。ISBN 978-4-14-088661-8