本部飛行場

日本の飛行場

本部飛行場 (もとぶひこうじょう Motobu Airstrip) は、上本部飛行場桃原飛行場ともよばれた、沖縄本島北部の本部半島、現在の美ら海水族館の近くにかつてあった米軍基地。また、本部飛行場の北側の備瀬にはフクギ並木に隣接して本部補助飛行場ビースリー小飛行場(Cub Airstrip on Beasley Field)があった。

本部飛行場
沖縄県本部町, 日本
Motobu airfield.jpg
本部飛行場
座標北緯26度41分009.15秒 東経127度53分23.90秒 / 北緯26.6858750度 東経127.8899722度 / 26.6858750; 127.8899722座標: 北緯26度41分009.15秒 東経127度53分23.90秒 / 北緯26.6858750度 東経127.8899722度 / 26.6858750; 127.8899722
種類Military airfield
施設情報
管理者アメリカ陸軍航空軍
歴史
建設1945年4月
建設者アメリカ陸軍・海軍
使用期間1945年
第二次世界大戦中に米軍が沖縄に建設した飛行場
本部飛行場に作られた2本の着陸用滑走路。建設工事は1945年7月1日に始められ、同8月6日には最初の飛行機が着陸した。(沖縄県公文書館)
本部飛行場の滑走路跡(2018年)

概要編集

本部飛行場は沖縄戦のさなかの7月に日本本土進攻を目的としてアメリカ陸軍工兵隊アメリカ海軍工兵隊シービーによって建設された。土地は強制接収され、当初、本部の住民は、最も運営状態の酷かった民間人収容所のひとつ、大浦崎収容所に送られた。約2キロの滑走路1本を備え、主に第5空軍隷下の飛行隊が1945年10月に本州に移動するまで使用した。その後は、弾薬集積場、また後年には海兵隊のヘリコプターや戦車等の演習地として利用されたが、1971年に返還された。

場所: 本部町(字豊原、字山川、字北里、字新里、字具志堅、字謝花、字浦崎)

面積: 253.9ha

施設: 滑走路(1,500 m×50m)、誘導路、駐機場

歴史編集

米軍 本部飛行場編集

  • 1945年7月1日: 日本本土進攻の偵察機用飛行場として建設が始められ、同8月6日には最初の飛行機が着陸した。
  • 1947年: 周辺地域を接収し拡張整備を行い、幅50m、長さ1,500mの滑走路、誘導路などを建設。
  • 1969年6月30日: 一部返還 (216,642坪 滑走路周縁部)
  • 1971年6月30日: 全面返還 (551,569坪 滑走路) 返還

海自 アズオック基地建設計画編集

  • 1978年: 沖縄開発庁 (当時) が境界不明地域として調査を開始。
  • 1980年2月11日: 地籍が確定。
  • 1988年: 防衛庁(当時) が海上自衛隊 P3C 哨戒機用基地(アズオック ASWOC 対潜水艦戦作戦センター用送信所)の建設計画を発表。建設用地の取得(買受・賃貸)を開始したが、地元住民の反対が起こる。
  • 1993年: ASWOC用送信所建設反対町民運動総決起大会が開催される。
  • 2008年7月: P3C哨戒機用基地(ASWOC用送信所)建設計画の中止が発表される。

地元への返還編集

  • 2009年3月: ASWOC用送信所建設用地の民有地の賃貸契約が期限切れとなり地主に返還される。
  • 2011年4月25日: ASWOC用送信所建設用地として買収された国有地(防衛省行政財産)が用途廃止され、普通財産として沖縄総合事務局(財務部)へ引継ぎされる。
  • 2013年2月1日: 残りの国有地を7480万円で本部町が買い取る[1]
  • 2014年、沖縄ハム総合食品が農業生産法人「もとぶウェルネスフーズ」を立ち上げ、農産加工場を建設する構想[2]

現在、飛行場跡地には農地や太陽光発電施設や商業施設、民家、本部町立上本部小学校がある。固く舗装された滑走路の原状復帰には数億円かかるとみられるため、現在も滑走路が残されたままとなっている。

飛行場建設と住民の強制収容編集

1945年6月から7月にかけ、本部半島で米軍によって本部飛行場や本部補助飛行場の建設が開始されると、本部半島の住民は名護市辺野古にあった大浦崎収容所などに送りこまれた。そこは数ある米軍が運営した民間人収容所でも最も粗悪な運営であったといわれている収容所で、また後にキャンプ・シュワブ基地となった場所である。

本部半島から辺野古崎への住民移動について、宣教師の息子として鳥取に生まれ、沖縄戦で軍医を務め、後にハーバードシカゴ大学で解剖学細胞学の権威となったヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐は次のように記している。

忘れてはならないのは、本部半島の北部や西部では戦禍はそれほどひどくなく、多くの住居が破壊を免れたが、アメリカ軍の占領後に強制移動させられたことである。ここでは、四月上旬から中旬にかけてアメリカ軍が浸入してくると、ほとんどの住民は村を捨て、山へ逃げた。二、三日経つと、アメリカ軍に対する恐怖心は消え、自分の住居に戻ってきた。アメリカ軍がすぐ側で野営しているにもかかわらず、住民は平常の生活に戻り、農耕収穫に励んでいた。二か月半もの間、戦闘の始まる前と同じように平和に暮らすことができた唯一の幸運な共同体であった。だが、日本軍の組織的抵抗が終了すると、アメリカ軍は休養のため、本部半島に移動してきた。そのため、住民を移動させることになった。本部半島の住民を受け入れる施設は全く用意されていなかった。約二万人の住民がトラックで東海岸に運ばれ、何もない原野に放り出された。数日してようやく仮の宿舎が与えられるという始末だった。

—ヘンリー・スタンリー・ベネット(The Impact of Invasion and Occupation on the Civilians of Okinawa | Proceedings - February 1946 Vol. 72/2/516 (訳 沖縄タイムス / 上原正稔著『沖縄戦トップシークレット』所収)より)

 
1945年7月9日に米空軍が撮影した本部補助飛行場。「伊江島の真正面にあるビースリー・フィールドの小飛行場。停泊しているのはフィリピン諸島のルソン島ラオアグから長旅をしてきた第3空軍第157連絡中隊の哨戒機ヴァルティL-5センチネル。」 (沖縄県公文書館)
 
森のようにみえる場所が観光地にもなっている有名な備瀬のフクギ並木と集落であり、それに並行するように滑走路が作られていた。。
 
滑走路があったあたりは十年かけて苦心して畑にもどされた。水溜めに使用されているのはおそらくジェット機投下タンクと思われる。

本部補助飛行場編集

米軍は伊江島と本部半島に多くの米軍基地を建設した。

  沖縄返還協定での名称 旧名称 備考
FAC6005 伊江島補助飛行場 伊江島補助飛行場
- 上本部飛行場 本部飛行場 桃原飛行場 返還
- 本部補助飛行場 ビースリー・フィールド C表: 返還
- 本部採石所 C表: 返還

1945年7月9日の段階で、米軍は基幹となる各種飛行場のほかに小さなカブ滑走路 (cub airstrip) を20あまりも建設し運用を始めていた。本部補助飛行場はそのうちの一つとみられ、ビースリー・フィールドの小飛行場とよばれていた[3]。美ら海水族館の北側にある備瀬フクギ並木の東側に建設された。米軍は住民を田井等収容所大浦崎収容所に収容し、その間に小飛行場を建設し運用していた。

その年の11月下旬に田井等や大浦湾の収容所から解放された備瀬の住民は、それでもすぐには元の住居に戻ることは許されていなかった。多くの住民が2-3世帯に一つの米軍テントの集団暮らしを余儀なくされた。備瀬誌によると「タナージビラから高良原に下りる道路の左右はもとより高良原一帯を埋め、さらにナガバタキーからガジーマンに至るまで、見渡す限りテントが張り詰められ」ている状態であり、食糧事情は大浦崎収容所時代と変わらない状態であった。

そのころは配給物資もわずかであったので、それだけでは飢えを凌ぐことができず、レイウムを掘ってきてウムニーを炊いたり、パルビラを摘んで雑炊を炊くなど食糧事情は大浦崎なみに困窮していた。従って大人も子供たちも朝から晩までそれこそ飢えた犬のように食糧探しに余念がなかった。

—仲田栄松編 (『備瀬史』1990年より)

現在は農作地になっているが、固いコンクリートで舗装された滑走路をはがすのに5年、土を畑にもどすのに10年かかり、また石油などが漏れ汚染された土地は農地として回復することはできなかったという[4]

配備された飛行隊編集

上記の陸軍飛行隊に加え、海軍の飛行隊も本部飛行場を利用した。終戦後は飛行場としては使われていないが、滑走路跡の一部は2019年現在も残っている。

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 報道制作局, 琉球朝日放送. “上本部飛行場跡 本部町が購入” (日本語). QAB NEWS Headline. 2020年2月16日閲覧。
  2. ^ オキハムが農産加工場 上本部飛行場跡地 琉球新報 2014年3月25日 10:13
  3. ^ 沖縄公文書館 資料コード 0000112237
  4. ^ 仲田栄松編『備瀬史』(1990年)

参考文献編集

  この記事にはアメリカ合衆国政府の著作物である空軍歴史調査局英語版の次のウェブサイトhttp://www.afhra.af.mil/本文を含む。This article incorporates public domain material from the Air Force Historical Research Agency website http://www.afhra.af.mil/.

  • Maurer, Maurer (1983). Air Force Combat Units Of World War II. Maxwell AFB, Alabama: Office of Air Force History. ISBN 0-89201-092-4.

関連項目編集