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朱友寧 (しゅ ゆうねい、? - 903年)は、後梁の初代皇帝朱全忠の甥。安仁朱存の長子。朱友倫の兄。幼い頃より詩に長じ、兵法を好んだと伝わる。

人物編集

叔父・朱全忠が汴を治めるようになると軍職を歴任する。叔父と共に、光州刺史秦宗権を生け捕りにして、これを処刑した功績により検校右散騎常侍、龔州・柳州の両州の刺史に任じられる。

903年6月、王師範を攻めたが莱州で足止めされ、王茂章の軍に挟撃されて斬首された。叔父が皇帝に即位すると、安王としての諡号を贈られたという。

歴史書の記述編集

旧五代史編集

(梁書巻十二 宗室列伝二)
 王友寧,字安仁。少習詩禮,長喜兵法,有倜儻之風。太祖鎮汴,累署軍職,每因出師,多命統驍果以從。及擒秦宗權,太祖令友寧轞送宗權西獻於長安,詔加檢校右散騎常侍、行右監門衛將軍。自是繼立軍功,累官至檢校司空兼龔、柳二州刺史。太祖駐軍岐下,遣友寧領所部兵先歸梁苑,以備守禦.屬青帥王師範搆亂,以關東諸鎮兵悉在岐、隴,自齊、魯至於華下,羅布姦黨,皆詐以委輸貢奉為名,陰與淮夷、并門結好。會有青人詣裴迪言其狀,迪以事告,友寧不俟命乃率兵萬餘人東討。師範遣其弟將兵圍齊州,友寧引兵救之,青寇大敗,奪馬四千蹄,斬首數千級。及昭宗歸長安,朝廷議迎駕功,友寧授嶺南西道節度使,加特進、檢校司徒,賜號迎鑾毅勇功臣。時青寇數千,越險潛伏,欲入兗州。友寧知之,伏兵於兗南邀之,大破賊眾,無得免者。自是兗壁危窘,友寧督諸軍進逼營丘,首攻博昌縣,月餘未能拔。太祖怒,遣劉捍督戰。友寧乃下俘民眾十餘萬,各領負木石,牽牛驢,於城南為土山。既至,合人畜木石排而築之,冤枉之聲,聞數十里.俄而城陷,盡屠其邑人,清河為之不流。及進迫寇壘,與青人戰於石樓,王師小卻,友寧旁自峻阜馳騎以赴敵,所乘馬蹶而仆,遂没於陣。友寧將戰之前日,有大白蛇蟠於帳中,友寧心惡之,既而果遇禍焉。

新五代史編集

(巻十三 梁家人伝第一)
 友寧字安仁,幼聰敏,喜慍不形於色。太祖以為軍校,善用弓劍。遷衙內制勝都指揮使、龔州刺史.太祖圍鳳翔,遣友寧東備宣武。王師範襲梁,圍齊州,友寧引兵擊之,奪馬千匹,斬首數千級。太祖奉昭宗還京師,拜友寧建武軍節度使,賜號「迎鑾毅勇功臣」。太祖復遣攻師範,圍博昌,屠之,清河為之不流.戰於石樓,兵敗,友寧墮馬見殺。