朴 婉緒(パク・ワンソ、1931年10月20日 - 2011年1月22日)は韓国小説家。39歳という遅咲きで文壇に登場するが、デビュー作『裸木』からその文筆を認められ、大衆作家としても多くのファンを持つ。

朴婉緒
各種表記
ハングル 박완서
漢字 朴婉緖
発音: パグァンソ
ローマ字 Bak Wan-seo(2000年式
Pak Wansŏ(MR式
英語表記: Park Wansuh
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略歴 編集

1931年10月20日、日本統治時代の朝鮮京畿道開豊郡青郊面墨松里の村で生まれる。本貫潘南朴氏[1]。父の朴泳魯は婉緒が4歳のときに夭折した。母は10歳上の兄を勉強させるために兄を連れてソウルに出て行ったので、祖父母と叔父、叔母の下で幼少期を過ごした。そこで『千字文』や『童蒙先習』を学び、村の学校にも通う。8歳のとき、母が婉緒をソウルに呼び寄せ、ソウルの梅洞国民学校に入学したが、しばらくは環境になじめず3,4年間は友だちもできずにいた。1944年淑明女子高等学校に入学。翌年光復を迎える。学校では、学生会、自治会が乱立し、世の中も混乱していた中、朴は日本人が残して行った書物を拾って、外国文学を耽読した。

1950年ソウル大学校文理大学国文科に入学すると、すぐに朝鮮戦争が始まり、故郷は北側に取り込まれた。戦争で兄と叔父、叔母を亡くし、その苦痛は朴の作品感に大きな影響を与えることになる。米軍部隊に就いて仕事をもらい生活をしのぐ。そこである男性と出会い、1953年に結婚する。1男4女の母となり、人並みの幸福を持った。『現代文学』の韓末淑との交流もあったが、まだ当時は文学を書く意思はなかった。やがて、子供も手から離れ、なにか空虚な感じを抱くようになる。そのとき、『新東亜』でノンフィクション作品の募集があり、知人であった画家、朴寿根の伝記を書こうと思い立つ。しかし、書いてみると自分の創作した部分が多く、また事実のままに書くことがうまくできないことに気づき、出来上がった作品はもはやノンフィクションではなかった。そこで、1970年10月、『女性東亜』に女性短篇小説募集に応募して当選したのが、デビュー作『裸木』である。『裸木』でその文才がすぐに認められ、朴は文壇に次々と作品を発表している。

2010年10月から闘病生活に入っていたが、2011年1月22日の早朝に亡くなった[2]。79歳没。

年譜 編集

受賞歴 編集

邦訳作品 編集

単行本 編集

アンソロジー 編集

代表作品一覧 編集

  • 1970年、裸木 (『女性東亜』)
  • 1971年、어떤 나들이
  • 1971年、歳暮
  • 1972年、旱魃期 (『女性東亜』連載)
  • 1972年、세상에서 가장 무거운 틀니
  • 1973年、부처님 근처
  • 1973年、저렁이 울음소리
  • 1973年、週末農場
  • 1974年、믿사위
  • 1974年、戀人들
  • 1974年、離別의 金浦空港
  • 1974年、어느 시시한 사내 얘기
  • 1974年、닮은 房들
  • 1974年、부끄러움을 가르칩니다
  • 1974年、재수굿
  • 1975年、카메라와 위커
  • 1975年、도둑맞은 가난
  • 1975年、서러운 巡房
  • 1975年、겨울 나들이
  • 1975年、저렇게 많이!
  • 1975年、都市의 흉년(『文学思想』連載)
  • 1976年、어떤 야만
  • 1976年、泡沫의 집
  • 1976年、背反의 여름
  • 1976年、조그만 體驗期
  • 1976年、휘청거리는 午後 (『東亜日報』連載)
  • 1978年、空港에서 만난 사람

脚註 編集

  1. ^ 정복규의 한국 성씨를 찾아서 58- 반남박씨(潘南朴氏)” (朝鮮語). 신아일보 (2012年8月28日). 2022年7月18日閲覧。
  2. ^ 고 박완서 “가난한 문인들에게 부의금 받지 마라 ハンギョレ新聞 韓国語版 2011年1月22日閲覧

参考文献 編集

  • 「アジア人物史 第12巻」集英社 2024年