本来の表記は「李琰」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

李 琰(り えん、生没年不詳)は、の第9代皇帝玄宗の四男。

生涯編集

初名を嗣真と称した。714年に鄫王に、724年には棣王に封じられ、同年名をと改めている。とは736年に再び改めた名である。

参考文献編集

  • 旧唐書
    (巻一百七 列伝第五十七)
    棣王琰,玄宗第四子也,初名嗣真。開元二年十二月,封為鄫王。十二年三月,改封棣王,仍改名洽。十五年,遙領太原牧、太原已北諸軍節度大使。二十二年,加太子太傅,餘如故。二十四年,改名琰。天寶元年六月,遙領兼武威郡都督、河西隴右經略節度大使。
    先是,琰妃韋氏有過,琰怒之,不敢奏聞,乃斥於別室。寵二孺人,孺人又不相協。至十一載,孺人乃密求巫者,書符置於琰履中以求媚。琰與監院中官有隙,中官聞其事,密奏於玄宗,云琰厭魅聖躬;玄宗使人掩其履而獲之。玄宗大怒,引琰詰責之。琰頓首謝曰:「臣之罪合死矣,請一言以就鼎鑊。然臣與新婦,情義絶者,二年于茲,臣有二孺人,又皆爭長。臣實不知有符,恐此三人所為也。惟三哥辯其罪人」。及推問之,竟孺人也。玄宗猶疑琰知情,怒未解,太子以下皆為請,命囚於鷹狗坊中,絶朝請,憂懼而死。琰妃即少師韋縚女,無子,琰死後,妃得還其父。琰男女繁衍,至五十五人。天寶中封為王者三人:僎為汝南郡王、祕書監同正員,僑為宜都王、衛尉卿同正員,儁為濟南王、光禄卿同正員。寶應元年五月,代宗即位,捨琰罪,贈其王位。
  • 新唐書
    (巻八十二 列伝第七)
    棣王琰,開元二年始王鄫,與鄂、鄄二王同封。後徙王棣,領太原牧、太原以北諸軍節度大使。天寶初,為武威郡都督,經略節度河西、隴右。會妃韋以過置別室,而二孺人爭寵不平,求巫者密置符琰履中以求媚。仇人告琰厭魅上,帝伺其朝,使人取履視之信。帝怒責琰,琰頓首謝曰:「臣罪宜死,然臣與婦不相見二年,有二孺人爭長,臣恐此三人為之」。及推,果驗。然帝猶疑琰,怒未置,太子以下皆為請,乃囚於鷹狗坊,以憂薨。妃,縚之女,無子,還本宗。
    琰凡五十五子,得王者四人,僎王汝南郡,僑宜都,儁濟南,侒順化;僚太僕卿,俠國子祭酒,仁殿中監,僾祕書監。寶應元年,詔復琰王爵。