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李垠

李氏朝鮮の王族

李 垠(り ぎん、イ・ウン、朝鮮語: 이은光武元年(1897年10月20日 - 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族、李王(李家当主)。大韓帝国時代の称号は英親王

李垠
宗親世
英親王
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍中将
Crown Prince of Korea Yi Un.jpg
李王垠(1928年頃撮影)
続柄 高宗第七皇子
幼諱 酉吉
字号 光天
雅号 明暉、明新齋
爵号 李王→身位喪失
諡号 懿愍太子
没死年 (1970-05-01) 1970年5月1日(72歳没)
没死地 大韓民国の旗 大韓民国ソウル昌徳宮楽善斎
実父 高宗
実母 純献貴妃 厳氏
配偶者 方子女王梨本宮家)
子女 李晋李玖
墓所 大韓民国の旗 大韓民国京畿道南楊州市金谷洞、英園
李垠
Crown Prince of Korea Yi Un 02.jpg
各種表記
ハングル 이은
漢字 李垠
発音: イ・ウン
日本語読み: り ぎん
ローマ字 I Eun2000年式
I ŬnMR式
英語表記: Yi Un
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目次

生涯編集

生い立ち編集

 
伊藤博文と李垠(1907年頃)。
 
徳寿宮に公族。左から李垠、李王李太王、不明(李太王の妃の一人)、徳恵翁主(1918年)
 
神戸港での李垠(1928年4月9日)
 
参謀旅行中の李垠と方子妃(1933年)
 
軍服姿の李垠(1938年)

李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に初代大韓帝国皇帝(李氏朝鮮第26代国王高宗の七男として生まれる。母は純献貴妃厳氏中国語版。異母兄の李が即位する(純宗)と皇太子となった。幼少期に当時韓国併合を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。

日韓併合後編集

その後、1910年(明治43年)に行われた日韓併合によって王世子となり、王族として日本の皇族に準じる待遇を受け、「殿下」の敬称を受ける。1920年(大正9年)4月に皇族の梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚する。1926年(大正15年)の李の薨去に伴い李王家を承継した。

陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、その後歩兵第59連隊長、陸軍士官学校教官、近衛歩兵第2旅団長などを経て陸軍中将になる。1945年(昭和20年)4月には、軍事参議官に補せられた。

第二次世界大戦後編集

第二次世界大戦日本の敗戦後、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に伴う王公族制度廃止により李王の身位を喪失した。「正規陸軍将校」であったため公職追放となった[1]

朝鮮日報の金泰勲は、日本の敗戦時、李垠が「どうかこれまでと同じ待遇を続けてもらえないか」と日本の内閣に哀願したという証言が残っている、としているが誰による証言なのかは書かれていない[2]

在日韓国人[3]となった李垠・方子夫妻は帰国を試みるが、日本と大韓民国の間の国交は樹立されておらず、その上、帝政復古を疑う李承晩大統領の妨害などもあり、帰国できなかった。

韓国へ編集

1959年(昭和34年)3月、渡米中に脳梗塞で倒れ、5月に日本へと戻る[4]。1961年(昭和36年)、渡米途中に日本に立ち寄った朴正煕大統領と面談。翌年夫婦ともに韓国籍になることを認めるとの通知を受ける[4]

1963年(昭和38年)に日韓国交正常化交渉が始まると、同年11月夫婦ともに韓国へ渡るが病身であったため金浦国際空港からソウルの聖母病院へと直接運ばれた[4]

死去編集

1970年(昭和45年)4月28日、結婚生活50周年の金婚式を病院で開くが、その3日後に病院で死去した[4]。李垠は皇帝への即位はなかったが、朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の号で位牌が納められた[4]

子女編集

方子妃との間に2男を儲けた。王世子であった李晋の突然の夭折には陰謀説がある。

年譜編集

 
日本皇太子嘉仁親王(左:後の大正天皇)訪韓時、有栖川宮威仁親王(右)と共に(1907年)
 
方子妃と共に(1924年)

栄典編集

逸話編集

二・二六事件編集

1936年(昭和11年)2月26日の二・二六事件当時、李垠は宇都宮歩兵第59連隊長だったが、2月28日には連隊の一部である混成大隊を直率して上京した。29日0時半に新宿駅に到着した後、九段のホテルを接収して本部を構え反乱軍を鎮圧すべく対峙した[8]

第1航空軍司令官編集

各地の航空隊を視察する時は必ず現地の神社を参拝した[8]。1944年(昭和19年)7月26日には副官や参謀を伴って空母鳳翔に乗艦し、海軍の攻撃七〇八飛行隊(一式陸上攻撃機装備)や攻撃四〇五飛行隊(銀河装備)とともに合同で夜間雷撃訓練を行なっていた麾下の陸軍飛行九八戦隊(四式重爆撃機装備)を視察した。この部隊は後に海軍の指揮下で台湾沖航空戦に参加した[9]

系図編集

李垠の親類・近親・祖先の詳細

登場作品編集

関連文献編集

  • 『英親王李垠伝 李王朝最後の皇太子』 同伝記刊行会編、共栄書房、1978年/1988年/2001年
  • 本田節子 『朝鮮王朝最後の皇太子妃』 文藝春秋、1988年/文春文庫、1991年
  • 新城道彦『天皇の韓国併合 王公族の創設と帝国の葛藤』 2011年、法政大学出版局

脚注編集

  1. ^ 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年510頁。NDLJP:1276156 
  2. ^ 金泰勲 (2016年8月21日). “【コラム】映画『徳恵翁主』、韓国人の自尊心をくすぐる歴史「脚色」”. 朝鮮日報. http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/08/19/2016081902092.html 
  3. ^ 法的には日本国籍を喪失したのは1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効時だが、日本の法令では様々な分野で外国人の扱いであった。
  4. ^ a b c d e 新城道彦 『朝鮮王公族―帝国日本の準皇族』 中央公論新社、2015年ISBN 978-4121023094
  5. ^ [1]
  6. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
  7. ^ 日本政府에서 支那事變生存者 第37回 論功行賞(陸軍關係 第31回)이 발표된 바, 日本陸軍少將 李垠이 功三級의 金鵄勳章을 받다.国史編纂委員会
  8. ^ a b 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』2010年、文春新書
  9. ^ 神野正美『台湾沖航空戦―T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』2004年、光人社

関連項目編集

  • 滄浪閣 - 李垠の別邸であった。
  • 楽寿園 - 李垠の別邸であった。
  • 多磨霊園 - 先祖の供養と子孫のために李王家供養塔を建立した。
先代:
李王
第2代:1926年 - 1947年
次代:
(身位喪失)
全州李氏当主
第28代:1926年 - 1970年
次代:
李玖