李 基(り き、531年 - 561年)は、西魏から北周にかけての官僚軍人は仲和。本貫隴西郡成紀県

経歴 編集

李遠の子として生まれた。幼くして容姿とふるまいが美しく、談論を良くし、書籍を渉猟し、騎射を最も得意とした。宇文泰の娘の義帰公主を妻に迎えた。544年大統10年)、員外散騎常侍を初任とした。父の勲功により、建安県公に封じられた。撫軍将軍・銀青光禄大夫・通直散騎常侍の位を受け、大丞相親信を兼ねた。まもなく大都督に転じ、爵位を清河郡公に進めた。

この頃、宇文泰は西魏の朝廷において廃帝との対立を深めていたが、宇文泰の諸子はまだ幼く、親族の章武公宇文導や中山公宇文護らは地方に出向していたため、心許せる身内は娘婿たちしかいなかった。李基は義城公李暉や常山公于翼らとともに武衛将軍となり、禁軍を分掌して、宇文泰のために廃帝を抑圧した。

554年恭帝元年)、使持節・車騎大将軍・儀同三司となり、散騎常侍の位を加えられ、爵位を敦煌郡公に進めた。ほどなく侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司の位を加えられ、陽平国世子となった。556年(恭帝3年)、六官が建てられると、御正中大夫に任じられた。

557年孝閔帝元年)、北周が建国されると、淅州刺史として出向した。まもなく兄の李植が宇文護殺害の計画に失敗して収監されると、李基も連座して死罪となるところ、叔父の李穆の請願により免れた。560年武成2年)、江州刺史に任じられた。561年保定元年)、在官のまま死去した。享年は31。578年宣政元年)、使持節・上開府儀同三司・大将軍・曹徐譙三州刺史の位を追贈され、敦煌郡公に追封された。は孝といった。

子女 編集

子の李威が後を嗣いだ。李威は字を安民といい、右侍上士を初任とした。累進して開府儀同三司に上り、祖父の李遠の爵位である陽平郡公を嗣いだ。武帝による北斉平定戦に従軍し、功績により上開府・軍司馬となった。宣帝が即位すると、大将軍に任じられ、熊州刺史として出向した。580年大象2年)、柱国に進んだ。581年開皇元年)、が建国されると、上柱国となり、黎国公に封じられた。

伝記資料 編集