李 延渥(り えんあく、生年不詳 - 1017年)は、中国北宋軍人本貫并州晋陽県

経歴 編集

李進卿の子として生まれた。父の蔭官により供奉官に任じられ、まもなく閤門祗候となった。西京左蔵庫使に累進した。咸平元年(998年)、知平戎軍・知寧辺軍・知順安軍・知保州・威虜軍鈐轄を歴任し、知冀州となった。咸平6年(1003年)、知瀛州に転じた。

景徳元年(1004年)、軍の侵入を受けたが、延渥は瀛州の城を堅く守って撃退した。并州団練使に転じた。景徳2年(1005年)、知邢州に転じた。天雄軍副都部署・貝州副都部署を経て、知冀州・知貝州・知博州をつとめた。大中祥符8年(1015年)、右領軍衛大将軍・瀛州団練使となった。大中祥符9年(1016年)、引退を願い出て認められ、左武衛大将軍として致仕した。天禧元年(1017年)、死去した。

子の李宗禹は、内殿崇班となった。

伝記資料 編集

  • 宋史』巻273 列伝第32