李 彦(り げん、? - 524年)は、北魏官僚は次仲。本貫隴西郡狄道県

経歴 編集

李承の子として生まれた。孝文帝の初年、司州の秀才に挙げられ、中書博士に任じられた。諫議大夫に転じた。後に考課により、元士に降格された。まもなく行主客曹事をつとめ、郊廟下大夫に転じた。このころ朝儀典章の制度は未整備であったため、李彦はその制定の議論に参与した。

493年太和17年)、孝文帝が南征の軍を起こすにあたって、李彦は親征に反対して諫めた。反対論は聞き入れられなかったが、その至誠を賞賛された。494年(太和18年)、北魏の六軍が淮南に進軍すると、李彦は広陵王元羽の長史として召され、恢武将軍・西翼副将軍の号を加えられた。洛陽に帰還すると、李彦は趙郡王元幹の下で冀州長史となった。後に広陵王元羽の下で青州長史に転じ、斉郡太守を兼ねた。洛陽に召還されて龍驤将軍・司徒右長史となり、司徒左長史・秦州大中正に転じた。さらに行揚州事として出向した。まもなく河南尹として召還されることとなった。帰京の途中の汝陰で、行徐州事をつとめるよう命を受けた。後に平北将軍・平州刺史に転じた。さらに召還されて、平東将軍・徐州刺史に任じられた。513年延昌2年)夏、大雨のために徐州の河川はみな溢れた。李彦は水陸の地勢を観て、水流を流れやすく誘導したため、冠水の被害を出さなかった。入朝して河南尹となった。後に金紫光禄大夫・光禄勲に転じ、度支尚書に任じられた。また撫軍将軍・秦州刺史として出向した。

524年正光5年)3月、破六韓抜陵らが沃野鎮で反乱を起こすと、秦州の近隣の夏州東夏州豳州涼州でも呼応して反乱軍が蜂起していた。李彦の秦州統治は刑罰を濫用して苛酷なものであったため、民衆の怨嗟を招き、城民の薛珍劉慶杜超らが反乱の計画を立てた。6月、反乱軍が秦州の城門に突入し、李彦を内斎で捕らえ、西府に監禁した。秦州の反乱軍は莫折大提を秦王に立てると、李彦を殺害した。永安年間、侍中・驃騎大将軍・司徒公雍州刺史の位を追贈された。は孝貞といった。

子女 編集

  • 李燮(字は徳諧、司徒参軍、著作佐郎、司徒祭酒、司徒主簿)
  • 李爽(字は徳明、秘書郎)
  • 李充(字は徳広、中散大夫)
  • 李徳顕(太尉行参軍、散騎侍郎)

伝記資料 編集

  • 魏書』巻39 列伝第27
  • 北史』巻100 列伝第88