李 経羲(り けいぎ)は清末民初の政治家。清末は総督などの地方官を歴任し、民国時代は極めて短期間ながらも北京政府の国務総理をつとめた。李鴻章の実弟李鶴章の子である。仲仙仲軒。号は悔庵蛻叟

李経羲
プロフィール
出生: 1857年咸豊7年)
死去: 1925年民国14年)9月18日
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 安徽省廬州府合肥県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 李經羲
簡体字 李经羲
拼音 Lǐ Jīngxī
ラテン字 Li Ching-hsi
和名表記: り けいぎ
発音転記: リー ジンシー
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事跡 編集

清末の事跡 編集

1879年光緒5年)、廩膳生(廩生)から優貢を取得する。さらに朝考で一等を獲得し、知県として任用された。1885年(光緒11年)、海防経費を献納(「報効」)したことにより、道員として優先的に選任されることとなる。2年を経て四川省永寧道で任用された。1893年(光緒19年)、湖南省塩法長宝道に補充任用(「補授」)された。1897年(光緒23年)、按察使に補充任用される。1898年(光緒24年)、福建布政使1899年(光緒25年)、雲南布政使と歴任した。

1901年(光緒27年)、広西巡撫、雲南巡撫を歴任した。翌光緒28年(1902年)の末に、貴州撫篆并兼貴州提督に就任した。1904年(光緒30年)5月、広西巡撫に異動する。このとき、省内の団練保甲を整頓し、戸口を調査し、随営速成学堂を創設した。1905年(光緒31年)10月、病のため辞任し、安徽鉄路鉱務総理となった。

1909年宣統元年)1月、雲貴総督に昇進し、昆明に赴任した。この時、特に雲南省で、鉱山の開発・実業の振興に取り組んだ。また、蔡鍔唐継尭ら日本留学経験者を多く起用し、雲南陸軍講武堂などを創設して、新軍の創設・強化にも貢献した。このほか、イギリスなどの諸国との領土確定交渉にも当事者として参加し、総督・巡撫を代表して憲政への移行を中央に奏請するなどしている。

以上のように、内政改革等では開明的な姿勢を示していた李経羲であったが、革命の動きには弾圧をもってのぞんだ。しかし、蔡鍔唐継尭ら新軍軍人は革命派に傾倒していたのである。1911年(宣統3年)10月29日夜、革命派による昆明重九起義が勃発した。李は捕虜とされたが、蔡鍔の指示により釈放され、上海へ逃亡している。

北京政府での活動 編集

1913年民国2年)2月、王芝祥于右任らが北京国事維持会を組織すると、李経羲はこれに参加した。これ以後、北京政府の政治家として復帰する。

同年7月の二次革命(第二革命)後、李経羲は袁世凱への接近を強める。11月に国会の代替機関として政治会議が設置されると、李はその議長となって、国会解散の提案を行った。1914年(民国3年)1月、約法会議議員資格審定委員会委員長を兼任する。5月に参政院参政、10月審計院院長となった。1915年(民国4年)に袁が皇帝即位を企むと、李は「嵩山四友」の1人(他は徐世昌趙爾巽張謇)としてこれを補佐した。しかし、同年12月の護国戦争第三革命)勃発に際して、袁から護国軍の蔡鍔を説得するよう命じられると、李はこれを拒否し、以後、袁への一切の協力を断った。

1917年(民国6年)春、李経羲は段祺瑞内閣・伍廷芳内閣で財政総長兼塩務署総弁をつとめた。府院の争いで、総統黎元洪により段祺瑞が国務総理から一時罷免されると、李が後任国務総理に指名された。ところが、段を支持する倪嗣沖安徽派督軍たち(督軍団)の抵抗により就任を妨害される。6月22日にようやく就任したものの、7月1日の張勲復辟で総辞職に追い込まれた。李経羲内閣は、北京政府における最短の内閣であった。以後、李は天津経由で上海に逃げ込み、政治の舞台から去った。

1925年(民国14年)9月18日、上海で病没。享年69。

参考文献 編集

  • 陳貞寿・劉伝標「杜錫珪」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第11巻』中華書局、2002年。ISBN 7-101-02394-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  
先代
于蔭霖
広西巡撫
1901
次代
丁振鐸
先代
丁振鐸
雲南巡撫
1901-1902
次代
林紹年
先代
鄧華熙
貴州巡撫
1902-1904
次代
曹鴻勛
先代
柯逢時
広西巡撫
1904-1905
次代
林紹年
先代
錫良
雲貴総督
1909-1911
次代
(廃止)
   中華民国北京政府
先代
伍廷芳
国務総理
1917年5月 - 7月
(正式就任、6月24日)
次代
段祺瑞
先代
李思浩
財政総長
1917年5月 - 7月
次代
梁啓超