村上幸子
日本の演歌歌手(1958−1990)
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村上 幸子(むらかみ さちこ、本名:鈴木 幸子、1958年10月21日 - 1990年7月23日[1])は、日本の演歌歌手。 所属事務所はクラウン音楽芸能→ホリプロダクション(現・ホリプロ)。
村上 幸子 | |
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出生名 | 鈴木 幸子 |
生誕 | 1958年10月21日 |
出身地 |
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死没 | 1990年7月23日(31歳没) |
ジャンル | 演歌 |
職業 | 歌手 |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1979年 - 1990年 |
レーベル | クラウンレコード |
事務所 |
クラウン音楽芸能 ホリプロダクション |
生涯編集
新潟県村上市(旧・岩船郡荒川町)出身[1]で、芸名は当時の出身地に近い「村上市」から取ったもの。1979年に『雪の越後を後にして』でクラウンレコードから歌手デビュー[1]。1984年の「酒場すずめ」が人気を集め[1]、歌唱賞レースに参戦した。
1985年8月15日、クラウン芸能からホリプロに移籍。新潟県出身者で初めてホリプロに所属する事となった。
1988年にリリースされた「不如帰(ほととぎす)」を自らの勝負曲と位置づけたが、歌詞中の「泣いて血を吐く ほととぎす」という表現が、当時昭和天皇が重体だったことから「時期的にも適切な表現とは言えない」として放送自粛になった[1]。後に「不如帰」は2006年に瀬口侑希がカバーした。
また文化放送のラジオ番組『走れ!歌謡曲』にやはり新潟県出身者で初めて同番組のパーソナリティを務めた。しかし1989年、喉部に大豆状のしこりが見つかり検査の結果、悪性リンパ腫と診断され入院した。その間もリスナーなどからの激励の手紙が多数村上のもとに寄せられたが次第に病状は悪化、1990年7月23日、31歳で死去した。
『走れ!歌謡曲』のパーソナリティだった小池可奈が、村上の半生とその交流を語った伝記本「さっちゃん物語」(三五館)を著している。
主な曲編集
- 雪の越後を後にして (作詞:丹古晴己/作曲:叶弦大/編曲:竜崎孝路)
- 盛り場かもめ (作詞:たきのえいじ/作曲:三木たかし/編曲:斉藤恒夫)
- 酒場すずめ(2010年に和田青児がカバー)(作詞:山田孝雄/作曲:四方章人/編曲:薗広昭)
- 恋椿
- やがて港は朝 (作詞:叶弦大/作曲:鈴木淳/編曲:斉藤恒夫)
- にごりえ (作詞:星野哲郎/作曲:桜田誠一/編曲:斉藤恒夫)
- 不如帰 (作詞:星野哲郎/作曲:桜田誠一/編曲:斉藤恒夫)
- 放浪記(『不如帰』同様、2009年に瀬口侑希がカバー)(作詞:星野哲郎/作曲:桜田誠一/編曲:斉藤恒夫)
- 嵯峨情話
- それなりに青い鳥 (作詞:阿久悠/作曲:三木たかし/編曲:川口真)
- 京の川 (作詞:星野哲郎/作曲:美樹克彦/編曲:桜庭伸幸)
- 雪の舞
- 女の旅路 (作詞:たかたかし/作曲:三木たかし/編曲:竜崎孝路)
- 笹舟 (作詞:木下龍太郎/作曲:船村徹/編曲:丸山雅仁)
- 螢火情話 (作詞:たかたかし/作曲:三木たかし/編曲:竜崎孝路)
- みちのくしぐれ(鳥羽一郎とデュエット) (作詞:丹古晴己/作曲:中村典正/編曲:池多孝春)
- デュオ「雨あがり」(琴風とデュエット) (作詞:吉岡治/作曲:岡千秋/編曲:斉藤恒夫)
- 純情物語(梅宮辰夫とデュエット) (作詞:中山大三郎/作曲:中川博之/編曲:小杉仁三)
- 帰郷 (作詞:石原信一/作曲:森田公一/編曲:あかのたちお)
- 恋風
関連書籍編集
- 小池可奈 『さっちゃん物語』三五館、1996年6月。ISBN 978-4883200856。