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相羽有(1953年)

東京航空輸送社(とうきょうこうくうゆそうしゃ)は1928年昭和3年)に設立された日本の民間航空会社である。1929年(昭和4年)から東京-下田間の定期航空営業をおこなった。

宇都宮の呉服店の三男に生まれた相羽 有(あいば たもつ)は、飛行家を目指すが強度の近視のために操縦者になることをあきらめ、雑誌『飛行界』の記者を務めていた。1917年大正6年)、自作の航空機の製作を目指していた玉井清太郎と知り合い、日本飛行学校を開校。玉井が1917年5月20日に玉井式3号機の事故で死亡し、相羽も父の遺産を使い果たすが、飛行倶楽部の後援会ができ資金を確保した。1917年9月台風による高波の被害で同校は資材を失い[1]、相羽も一旦飛行機事業から手を引き、日本初の自動車学校の運営に専念するとこの事業は成功した。

1921年(大正10年)航空界が急速に発達するのをみた相羽は1923年(大正12年)日本自動車学校に飛行科をもうけ、1924年(大正13年)日本飛行学校を再び設置した。同校は操縦者の育成だけでなく航空事業も開始し、1928年東京航空輸送社を設立した。1929年定期航空の認可を得て、複座のアブロ 504と、海軍から払い下げを受けたハンザ・ブランデンブルク水上機(乗客1名)を用いて、東京-下田間の定期航空営業を開始する。後に4人乗りの愛知AB-1輸送機の貸与を受けると1931年(昭和6年)2月にエア・ガールを募集、審査を委嘱された日本飛行学校在籍の北村兼子[2]が選考した3名を採用し、同乗させた。

1939年(昭和14年)3月27日、国の方針により大日本航空に吸収合併された。

日本飛行学校編集

玉井清太郎は1916年大正5年)8月16日付で日本飛行学校の設立を申請し[3]、同校は1917年1月4日、東京府荏原郡羽田町穴森(現在の東京都大田区羽田)に正式に開校した[注釈 1][5]

主な在籍者は次のとおり。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 玉井清太郎は川崎側の通称「三本葭」とよばれた砂浜を飛行練習場とし、1916年(大正5年)10月5日に集まった人々の頭上を初めて飛んだ。玉井はその日を日本飛行学校の創立日としている[4]

出典編集

参考文献編集

  • 稲垣足穂 (1969). ヒコーキ野郎たち. 新潮社. NCID BN15324602. 
  • 稲垣足穂 (1989). 稲垣足穂詩集. 現代詩 文庫. 1037. 思潮社. ISBN 478370855X. NCID BN03238944. 
  • 北原進 (1996). 大田区史. 大田区史編さん委員会 [編]. 東京都大田区. NCID BN00528121. 
  • 京急グループ110年史 : 最近の10年(1998年~2008年). 京浜急行電鉄株式会社 [編]. 京浜急行電鉄. (2008-02). NCID BA85717255. 
  • 和田博文 (2005). “飛行関係事項/書籍年表”. 飛行の夢 1783-1945: 熱気球から原爆投下まで. 藤原書店. pp. 373-395. ISBN 489434453X. NCID BA72197866. https://books.google.co.jp/books?id=xxdOAQAAIAAJ&q=%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%80%E5%8C%97%E6%9D%91%E5%85%BC%E5%AD%90&dq=%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%80%E5%8C%97%E6%9D%91%E5%85%BC%E5%AD%90&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwigtufYneTdAhUEQLwKHVhUDt0Q6AEITTAI 2018年9月30日閲覧。. 
  • 近藤晃 (2017). "羽田の空"100年物語 : 秘蔵写真とエピソードで語る. 交通新聞社新書. 交通新聞社. ISBN 9784330760179. NCID BB23150386. 

関連文献編集

  • 飛行界
  • 稲垣足穂 (1969). ヒコーキ野郎たち. 新潮社. NCID BN15324602. 
  • 平木国夫 (1982). 日本飛行機物語(首都圏篇). 冬樹社. NCID BN10374283. —年表: p230–240; 主な参考文献: p242–243

関連項目編集