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東京電力 (1925-1928)

1925年から1928年にかけて存在した日本の電力会社

東京電力株式会社(とうきょうでんりょく かぶしきがいしゃ)は、1925年大正14年)から1928年昭和3年)にかけて存在した日本の電力会社である。当時の大手電力会社東邦電力の系列で、社名の通り東京への電力供給を行った。

東京電力株式会社
種類 株式会社
略称 東力
本社所在地 日本の旗 日本
東京市麹町区永楽町2丁目10番地
設立 1925年(大正14年)3月16日
業種 電気
事業内容 電気供給事業電気軌道事業
代表者 田島達策(社長)
松永安左エ門(副社長)
資本金 6825万円(全額払込済み)
株式数 136万5000株(額面50円払込済)
総資産 1億6,678万6千円
収入 758万2千円
支出 456万7千円
純利益 301万5千円
配当率 年率8.0%
決算期 5月末・11月末(年2回)

山梨県での水力開発を目的に設立された早川電力株式会社(はやかわでんりょく)と、群馬県での水力開発を目的に設立された群馬電力株式会社(ぐんまでんりょく)の2社を前身とする。東京電力は両社の合併により設立され、東京において明治期より存在する東京電灯を相手として激しい需要家争奪戦、通称「電力戦」を展開した。

既存の東京電灯が「東電」(とうでん)と通称されたのに対し、後発の東京電力は「東力」(とうりょく)と呼ばれた[2]。1928年、電力戦の末に競争相手の東京電灯との合併が成立、同社に吸収され消滅した。

本項目では、東京電力とその前身たる早川電力・群馬電力についても記述する。

目次

概要編集

東京電力株式会社は、1925年(大正14年)3月に早川電力と群馬電力の2社が合併し成立した電力会社である。本社は東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)。

前身の早川電力は、社名にある早川富士川水系、山梨県を流れる)の開発を目的として1918年(大正7年)に設立。浜松市をはじめとるす静岡県西部に供給したほか、東京市などにおける電力供給許可を得ていた。一方群馬電力は1919年(大正8年)に設立。群馬県を流れる利根川水系吾妻川を開発し、主として神奈川県川崎市一帯の京浜地区に電気を供給していた。この2社を結びつけたのは、戦前期の大手電力会社「五大電力」の一つ東邦電力である。1923年(大正12年)から翌年にかけて早川電力・群馬電力の双方を傘下に収め、1925年に両社の合併を主導して東京電力を成立させた。東邦電力が経営を握るとともに、安田財閥が金融面で後援していた。

関東地方を地盤として五大電力の一角を占める東京電灯とは京浜地区において群馬電力の時代から競合関係にあったが、東京電力が東京市内および同市郊外の工業地域にて1927年(昭和2年)1月より電力供給を始めるに及んで大口の電力需要家を互いに奪い合う激しい「電力戦」へと発展した。この需要家争奪戦の行く末を危惧した金融機関の代表者が仲介に入り、同年12月に合併契約の締結に至り、電力戦は終結、翌1928年(昭和3年)4月に東京電力は東京電灯に合併されて解散した。

東京電力が供給していた地域は1951年に発足した戦後の東京電力の営業区域に含まれるが、静岡県中西部は中部電力区域となっている。また供給事業以外にも群馬県で鉄道事業電気軌道)を営んでいたが、鉄道事業収入は総収入の0.3%(1927年11月期)[1]と小規模であり、なおかつ運営していた路線は現存しない。

前身会社の東京進出編集

以下、東京電力の沿革のうち、前身会社早川電力・群馬電力の沿革について記述する。ただし両社の電源開発については下記電源開発の項を参照のこと。

早川電力の設立編集

早川電力株式会社
種類 株式会社
本社所在地   日本
東京市麹町区永楽町1丁目1番地
設立 1918年(大正7年)6月28日
業種 電気
事業内容 電気供給事業
代表者 松永安左エ門(社長)
資本金 3000万円(うち1875万円払込)
株式数 旧株:30万株(額面50円払込済)
新株:30万株(12円50銭払込)
総資産 4801万0千円
収入 182万7千円
支出 108万9千円
純利益 73万7千円
配当率 年率10.0%
決算期 5月末・11月末(年2回)
資本金以下は1924年11月期決算による[3]

東京電力の前身の一つ、早川電力株式会社は、1918年(大正7年)6月28日に創立総会を開いて成立した[4]。設立時の資本金は800万円[5]。設立の目的は、山梨県南部を流れる富士川支流早川の水力2万3,000馬力を開発、水力発電所を建設し、その電力を静岡県に供給することにあった[5]

当初の社長は、富士製紙の社長でもあった窪田四郎[6]。設立当初は富士製紙への電力供給を目的としており、株式の過半数を同社が保有していた[6]。同社は明治中期に設立された製紙会社で、富士川下流域の静岡県富士郡にて製紙工場を操業[7]。製紙工場への電力供給を目的として1907年(明治40年)11月に富士水電を設立[8]、後に進出した北海道でも電気事業を営み1919年(大正8年)10月に富士電気(後の大日本電力)を設立する[9]など、各地で電気事業に関与していた。窪田は、富士製紙の社長職を1919年5月に退き大川平三郎に譲った[9]。これ以降富士製紙は北海道や樺太に事業の中心を移し、なおかつ持株を手放したため、早川電力に留まった窪田はその責任上同社の経営に集中することとなった[6]

早川電力は発足後、早川開発の第一期工事に着手するが、有利な供給区域を持たないため1920年(大正9年)3月に日英水電株式会社を合併した[10]。同社の資本金は300万円で、合併に際し同社株主に対し1株につき早川電力株式1株ずつ交付したため、早川電力の資本金は300万円増加して1,100万円となっている[5]。合併により日英水電から水力発電所3か所などを引き継ぎ、浜松市を中心とする静岡県西部に電気の供給を開始した[10]。さらに1922年(大正11年)2月には天竜電力・福田電力・東遠電気の3社を合併して静岡県西部での供給区域を広げた[11]

群馬電力の設立編集

群馬電力株式会社
種類 株式会社
本社所在地   日本
東京市麹町区永楽町2丁目10番地
設立 1919年(大正8年)7月5日
業種 電気
事業内容 電気供給事業、電気軌道事業
代表者 田島達策(社長)
松永安左エ門(副社長)
資本金 1225万円(内625万円払込)
株式数 旧株:24万株(25円払込)
合併株:5000株(額面50円払込済)
総資産 3,247万7千円
収入 144万0千円
支出 118万6千円
純利益 25万4千円
配当率 年率7.5%
決算期 5月末・11月末(年2回)
資本金以下は1924年11月期決算による[12]

もう一つの前身会社である群馬電力株式会社は、1919年(大正8年)7月5日に資本金700万円で設立された電力会社である[13]群馬県を流れる利根川支流の吾妻川における水力発電を設立の目的とした[13]

吾妻川は、途中で白砂川(当時は須川、上流部に草津温泉がある)が流れ込む影響で水質が酸性を帯びており、工事への懸念から県内のほかの河川にて水力発電計画が浮上する中でも計画が立てられず取り残されていた[14]。群馬県出身の実業家田島達策ミツウロコ初代社長)はこの吾妻川に目をつけ、1906年(明治39年)に吾妻川下流の水利権を取得する[14]。開発にあたっては安田財閥が後援となり、1919年に群馬電力が発足すると社長には安田家から安田善三郎が就任(後に安田善五郎に交代)、専務も安田系の小倉鎮之助が入った[15]。田島は副社長となったが、安田家から社長が出されたのは同家の慣例によるもので実際の仕事は田島や専務の小倉に任されていたという[15]

群馬電力は吾妻川において金井発電所の建設を計画していたが、同発電所の放水を利用する発電所を別個に建設すべく吾妻電気株式会社という電力会社も設立されていた[16]。吾妻電気は資本金は500万円で、1920年6月1日創立総会を開催、安田善三郎が社長、小倉鎮之助が専務となり、田島達策らが取締役に就任[17]。株式払い込みの都合上別に設立された姉妹会社であり[13]、群馬電力は間もなく同社を吸収し、資本金を1,200万円とした[16]。さらに1924年(大正13年)9月に、吾妻川沿いの中之条町などに電気を供給し電気軌道事業も営む吾妻軌道を合併し、資本金を1,225万円としている[18]

東京進出の経緯編集

前身2社のうち、先に東京進出を果たしたのは群馬電力であった。同社は当初から東京方面への送電を想定しており、東京方面と発電所周辺に供給しつつ発生電力の過半を京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)へ供給する計画を立てていた[16]。京浜電気鉄道は東京と横浜を結ぶ電鉄会社で、群馬電力と同様安田財閥系の企業であり、重役も一部重複していた[15]。また群馬電力の設立にあたって、電力供給を前提に京浜電気鉄道は株式の一部を引き受けていた[15]。群馬電力は1920年2月6日付で供給事業の許可を受け、神奈川県橘樹郡の一部[注釈 1]に電力供給区域を設定した[19]

京浜電気鉄道は、大森町蒲田町東京府荏原郡)や川崎町鶴見町(神奈川県橘樹郡)など鉄道沿線の21町村にて電灯・電力供給事業を経営していた[20]。このうち荏原郡は東京電灯の供給区域と重複しており[21]、従来供給用電力を購入していた桂川電力1922年(大正11年)2月に東京電灯と合併すると、電力の購入先と供給が競合する状態になった[22]。鉄道事業への投資集中もあって京浜電気鉄道は供給事業の東京電灯への譲渡を決定するが、この決定を安田財閥などの介在のため覆し、1922年7月群馬電力との間に供給事業の譲渡契約を締結した[22]。翌1923年(大正12年)5月1日、京浜電気鉄道から群馬電力へと引き渡しが完了する[22]。この間の1922年12月、金井発電所の運転開始を受けて群馬電力は開業[23]。競合する東京電灯は料金の値下げや送電方法の改良などを実施して群馬電力に競争を挑み、群馬電力側でも資金を借り入れつつ抗戦した[23]

一方早川電力は、日英水力電気の事業権利を継承することによって東京方面での供給区域を獲得した。この日英水力電気というのは1906年(明治39年)に計画された電力会社で、日英同盟の交誼から日本とイギリスの提携による大井川の共同開発を目論んだが実現せず、日本側が設立した先述の日英水電という別会社によって計画の一部が完成するに留まっていた[11]。日英水力電気は大井川水利権のほか東京市や付近主要町村への電力供給権も保持しており、早川電力は日英水電の合併に続き1921年(大正10年)7月に日英水力電気株式会社発起人よりこれら水利権・電力供給権を譲り受けた[6]

かくして東京方面への足がかりを得た早川電力は、早川における榑坪発電所(後の早川第一発電所)と静岡県下および東京方面への送変電設備建設を第一期工事とし、事業に着手[6]1923年(大正12年)6月、このうち発電所と静岡県下の送変電設備を完成させ、7月中旬より送電を開始した[6]。残る東京方面への送変電設備は、榑坪発電所から川崎(神奈川県)および東京郊外の戸越に設置する変電所まで約140マイルの66キロボルト送電線を架設するという計画で同年10月の完成を目指したが[6]、9月1日に関東大震災が発生して行き詰った[24]

東邦電力の参入編集

東京方面への供給権を持つ早川電力・群馬電力の両社を関東大震災後に相次いで支配下に収めたのが東邦電力株式会社である。同社は愛知県名古屋電灯福岡県九州電灯鉄道などの電力会社の再編により成立した当時の大手電力会社(「五大電力」の一つ)で、本社を東京に置くが中京地方九州地方を供給地盤としていた[25]伊丹弥太郎が社長、松永安左エ門が副社長を務めていたが、実際には松永が主導する会社である(1928年社長昇格)[25]

東邦電力は成立の過程において、天竜川に発電所を持ち浜松方面へと電力を供給する天竜川水力電気を合併しており[26]、浜松を含む静岡県西部に供給する早川電力とは一部で競合する立場にあった[24]。余剰電力の供給先を求めて早川電力と提携交渉を進めていたが、関東大震災以前の段階では機が熟さず実現していなかった[24]。ところが震災で早川電力の事業が行き詰ると、打開策として同社取締役の前田米蔵が話を持ち込み、両社合併の運びとなる[24]1924年(大正13年)3月、東邦電力は早川電力との合併を決定し、早川電力側の内容整備を待って3年以内に吸収することとした[24]。その上、自社の出資による早川興業株式会社(資本金1,500万円)を設立、3月15日にこれを早川電力に合併させた[24]。早川電力は合併に伴い資本金を1,500万円増資して3,000万円とするとともに、東邦電力が過半数の株式を保有する大株主となってその支配下に入った[24]。また松永安左エ門が新たに社長に就任した[24]

東京進出を狙う東邦電力は早川電力との交渉を進める一方、同社だけでは既存の東京電灯に対抗できないと見て、早川電力が安田銀行から融資されていた関係で安田系の群馬電力にも着目[18]。松永安左エ門が安田銀行副頭取結城豊太郎に直接交渉を持ちかけて群馬電力との提携を先に成立させた[18]。群馬電力は当時、不況もあって業績が伸び悩んでおり、株式の払込金徴収も困難な状況にあった[27]。提携の結果1923年12月25日の株主総会にて松永が取締役として群馬電力に入り、安田善五郎にかわって副社長の田島達策が社長に昇格、松永が後任副社長に就任した[18]

1924年4月、早川電力によって建設中の東京送電線が沼津(静岡県)まで完成[23]。7月には川崎までの全線が完成し、早川電力も東京方面への送電を果たした[23]。また早川電力から群馬電力への電力供給も始まっている[23]。1924年下期末(11月末)の時点の供給実績は、浜松方面において電灯供給24万7,260灯・電力供給1万4,164馬力、東京方面(沼津での供給を含む)において6,570キロワット[23]。また群馬電力の供給実績は電灯供給18万9,403灯、動力用電力7,059馬力、電熱用電力1,210キロワット、電気事業者への電力供給最大9,500キロワットであった[23]

東京電力と「電力戦」編集

以下、東京電力の沿革のうち、会社設立から東京電灯の合併までの期間を中心に記述する。

東京の電気事業編集

早川電力や群馬電力が進出を図った東京は、日本で最初の電力会社東京電灯の地盤であった。同社は1887年(明治20年)11月に東京市内での配電を開始した、日本における電気供給事業の先駆者である[28]

明治末期になると、水力開発の活発化と政府の電気普及促進政策により東京電灯以外にも複数の事業者が東京市内へ進出するようになる[29]。明治末期に許可を得て大正までに開業する鬼怒川水力電気桂川電力猪苗代水力電気利根発電などの会社が該当し、後に早川電力に引き継がれる日英水力電気も明治末期の1908年に事業許可を受けている[29]。これらの会社と東京電灯は電力受給契約を締結しており市内供給について競合することはなかったが、1907年に開業した市営電気事業と1913年(大正2年)に開業した日本電灯は東京電灯に対して攻勢を仕掛け、市内で激しい電灯需要家の争奪戦を展開した(いわゆる「三電競争」)[29]。3事業者の競争は1917年(大正6年)に停戦協定が交わされるまで続いた[29]

大正後期から東京電灯は積極経営を展開する[30]。かつての競合会社日本電灯や電力供給元の猪苗代水力電気などを相次いで合併し、東京市内に供給権を持つ電力会社を鬼怒川水力電気と未開業の日英水力電気を除いて統合したのである[30]。合併の結果、関東大震災前の時点で東京電灯の資本金は2億5,800万円に達し、供給区域は関東地方一帯に拡大した[30]。1923年9月の関東大震災では変電・配電設備および営業設備を中心に被災し、需要家の罹災で需要の激減を来たして特に電灯供給では震災前の水準に回復するまで2年余りを要した[31]。一方震災を機に工場電化が進んだことから電力需要はかえって増加し、震災から1年で震災前の水準に戻っている[31]

震災翌年から東京電灯は事業の拡張を再開、京浜電力富士水電を合併したほか1926年(大正15年)には帝国電灯を合併した[32]。帝国電灯の合併をもって資本金は3億4,572万4,000円に膨らみ、関東以外にも山陰地方北海道樺太にも供給区域を持つに至った[32]。大正後期からの拡張時代に経営を担ったのは社長の神戸挙一[33]。1922年には副社長に若尾璋八が就き、1926年に神戸が死去すると後任社長となった[33]。神戸・若尾ともに甲州財閥に属する実業家である[33]

五大電力の角逐編集

 
福澤桃介(大同電力社長)

大正後期、東京電灯が関東を中心に巨大化したのに並行して、中京地方九州北部では東邦電力関西地方では宇治川電気が勢力を拡大[34]。さらに電力の卸売り[注釈 2]を主体とする新興の大同電力日本電力とあわせ、電力業界では「五大電力」と呼ばれる大手5社の勢力が著しく伸長した[34]。五大電力のうち、後発の大同電力・日本電力は積極的な大規模水力開発を手がけ、続々と完成する発電所の発生電力を消化するために既存事業者に対して「電力戦」と呼ばれる激しい需要家争奪戦を演じた[35]。この時期の「電力戦」は、当時の逓信省が電灯供給および小口の電力供給については既存事業者の地域独占供給を認める一方で、大口の電力供給については独占の弊害を除去するためとして新規事業者の参入を許可したことから、大口電力需要家の争奪戦という形で展開された[35]

初期の電力戦は中京・関西地方で行われた。中京地方では、1923年に日本電力が名古屋市などに電力供給権を獲得して同地方に参入、既存の東邦電力から大口需要家を奪い取るという電力戦が生じる[36]。関西地方では、京阪方面へ進出した大同電力に対し、既存の宇治川電気が競争を避けて同社からの大量の電力購入を開始したが[37]、これによって姉妹会社であった日本電力との関係が悪化してしまい、1926年から宇治川電気・日本電力は関西を舞台に激しい需要家争奪戦を演ずることになった[38]

電力戦は東京電灯の地盤である関東地方にも及んだ[35]。関東は日本国内における電力需要の3割を占める巨大市場であり、この市場の奪取を狙って電力戦が展開されたのである[35]。東京電灯以外の五大電力のうち最初に東京へ進出したのは大同電力であった[35]。同社は1923年6月、東京電灯との間に電力供給契約を締結[39]。1925年には東京市・横浜市などへの大口電力供給権を得るが、東京電灯との競争は控えている[39]。大同電力に続いて東京へ進出したのが東邦電力(傘下の東京電力)である[35]。1927年より、東京電灯との間で激しい大口需要家争奪戦を展開した。

東京電力の設立と拡張編集

東邦電力の東京進出を主導したのは、同社副社長の松永安左エ門である。東邦電力は本社を名古屋電灯時代からの名古屋市より東京市へと移し、関東大震災後には焼失した東京市内の商工業地区へと供給する「東京復興電気会社」の計画をまとめるなど、早くから東京進出を念頭に置いていた[40]。さらに復興電気会社の計画作成後の1923年10月、松永は新聞紙上において、震災復興のための電気事業は組織を根本的に改革していかにすれば豊富かつ低廉な電気を永久に供給できるかを研究するならば、震災前の水準の電気を従前の半額の料金で供給でき近い将来には供給を5倍に増加させうるであろう、と述べて東京電灯への宣戦布告をしている[40]。松永が晩年(1964年)に執筆した『私の履歴書』によると、東京進出の動機は東京の電気事業(東京電灯)の是正のためもあるが、正直なところは自身の手で事業を統一する野心があったためであるという[41]。東京進出の体制を整えるため、松永は早川電力・群馬電力の2社を東邦電力の支配下に収めた[41]

1924年12月25日、早川電力と群馬電力はそれぞれ株主総会を開き、両社の間で交わされた合併契約を承認した[42]。合併比率は1対1[42]。両社の合併を推進したのは東京進出を目指す東邦電力で、早川電力社長と群馬電力副社長を兼ねる松永が仲介役となって合併を実現させた[42]。早川電力の株主総会において松永は、群馬電力は京浜電気鉄道から引き継いだ将来性のある有利な供給区域を持っており、この供給区域に対して早川電力も供給するならば有利であり、さらに将来の電源開発に際して群馬電力の送電網を活用して供給できるならば得策であるから、両社の合併は東京やその付近の開発にとって必須である、という旨を説明している[43]

 
東京電力常務進藤甲兵

1925年(大正14年)3月16日、両社合併による新会社東京電力株式会社の創立総会が開催される[42]。成立した東京電力の資本金は、早川電力の3,000万円と群馬電力の1,225万円をあわせた4,225万円で、そのうち4割を東邦電力が出資し[42]、経営については同社が取り仕切った[44]。設立時、東邦電力との間に1928年を目処に合併するという了解があったという[44]。また安田保善社が第2の株主(持株比率8%)で[42]、金融関係は安田財閥の後援を受けた[44]。本社は東京市麹町区(現・東京都千代田区)である[42]。社長は群馬電力社長の田島達策、副社長は松永安左エ門、専務は群馬電力の宮口竹雄、常務は東邦電力の進藤甲兵と早川電力の結城安次がそれぞれ就任した[42]。田島・宮口は安田関係の代表者で金融方面、結城は貴族院方面、1年遅れて常務に就任した佐竹義文は政党方面に対するいわば「看板」で、会社の実権は東邦電力の松永や進藤が握っていたという[27]

設立直後から東京電力は積極経営を展開する[42]1926年(大正15年)4月、まず元早川電力系列の水力開発会社である田代川水力電気株式会社(資本金500万円)を合併した[42]。同社は、早川開発に続く第二期工事として計画されていた田代川(大井川上流)の開発を担当すべく早川電力によって設立[6]。合併時点では3つの発電所と川崎へ至る送電線を建設中であった[11]。合併比率は1対1で、合併によって東京電力は資本金を4,725万円とした[11]

1926年10月には静岡県や山梨県に供給区域を持つ静岡電力株式会社(資本金1,500万円)を合併した[42]。同社は1920年に富士製紙から電気事業(四日市製紙の電気事業が前身[45])を譲り受けて開業した電力会社で、静岡県中部や山梨県に供給区域を持ち、ほかに静岡市営電気事業などへ電力を供給していた[42]。地方の会社としては成績が良く、これを東京電灯に取られるわけにはいかないということで松永が合併を希望したという[46]。合併比率は1対1.4で、合併により東京電力の資本金は6,825万円となっている[46]

合併以外にも事業拡大策を矢継ぎ早に打ち出す。設立直後の1925年3月、大井川水系寸又川の開発を計画する寸又川電気株式会社(資本金150万円、1924年6月設立)の株式を取得し、松永が社長を兼任して経営を引き受けた[42]。次いで同年12月には資本金1,000万円で上毛電力株式会社を設立し、利根川水系片品川などの開発を計画する上毛製紙を吸収[42]。翌1926年12月には利根川水系吾妻川などの開発を目的に須川電力株式会社を資本金1,000万円で設立し、さらなる電源増強を図った[42]。また同年5月、早川電力の時代から電力を供給していた浅野財閥系の東京湾埋立から電気事業を分離させて自社系列の東京湾電気株式会社(資本金500万円)に移し、鶴見町田島町両地先の埋立地における供給事業を引き継いで間接的に供給区域を拡大した[47]

「電力戦」開戦編集

 
東京電力の東京進出を許可した逓信大臣安達謙蔵

1926年(大正15年)5月24日[48][46]、東京電力は東京市郊外の南葛飾郡南足立郡および北豊島郡南千住町における大口(一構内あたり50馬力以上)の電力供給を許可された[49]。この地域への参入は、東京方面への本格進出を図るためのものである[49]

当時、上記地域は東京府内でも有数の工業地帯であり、大口需要が比較的密集して存在することから効率的な供給が可能で、その上紡績モスリンといった負荷の高い工場が集中するため、東京電灯にとっても収益を支える重要な地域であった[49]。実際に、1926年上期の時点における東京電灯の同地域内の電力供給契約は約4万5,000キロワットにのぼり、東京電灯全体の電力需要の約13%に相当していた[49]。東京電力がこの地域における電力供給許可を申請したのは、前年8月に時の加藤高明内閣憲政会単独内閣となってからで、許可を与えた逓信大臣は安達謙蔵である[48]。東京電灯は副社長の若尾璋八が立憲政友会総務であるなど立憲政友会系の会社と目されていたことから、東京電灯の重要地域への東京電力参入を許可したのは政友会と対立する憲政会の党略である、との指摘がある[50]

ともあれ南葛飾・南足立・北豊島3郡における大口電力供給権を獲得した東京電力は、供給体制の整備に着手。金井発電所(群馬県)から川崎へと至る既設11キロボルト送電線(群馬本線)の途中から支線を分けて南葛飾郡松江町に変電所を設置し、さらに2次変電所を同郡大島町と東京市内本所区深川区の3か所に配置して、群馬県下金井・渋川両発電所からの電力と上毛電力からの受電をあわせた合計2万8,800キロワットをこの地域に供給することとした[46]。さらに渇水時の予備として3万5,000キロワットの出力を備える火力発電所の建設にも着手している[46]

実際の供給を始める前の1926年後半より、電力料金の引き下げや文書による勧誘などを伴う需要家獲得競争が東京電力・東京電灯の間で開始された[49]。東京電力では、以下の点を自社の優位性として挙げて営業活動に努めた[51]

  • 低料金 - 建設費の圧縮によって電力の原価が低いことによる。
  • 安定供給 - 各発電所に加え東邦電力とも広域に連系して故障や渇水に備えることによる。
  • 地下線供給 - 風雪に対して故障がなく工事費も安い地下配電線によって供給する。
  • 設備の単純化 - 配電設備を単純化することで安全度を向上する。
  • 無休送電 - 従来1か月に2日の送電停止(休電日)があったが1年を通じて昼夜無休の供給とする。

上記のうち電力料金については、東京電力は東京電灯よりも安い水準で販売するとした[49]。これに対し、東京電灯の側も料金の値下げに踏み切り、1926年6月1日から東京電力の料金と同等の水準で供給を始めたほか、優秀な社員を第一線に立てて顧客の維持に奔走した[49]

1927年(昭和2年)1月1日、東京電力は南葛飾・南足立・北豊島3郡および東京市深川区・本所区方面での電力供給を開始した[49]。この地域で最大の需要家である南葛飾郡の日清紡績への供給(供給電力2,700キロワット)を東京電灯から奪い取るなど需要家を相次いで獲得するが、一方で東京電灯の反撃にあって需要家を奪い返されるなど、同社との間で激しい需要家の争奪戦を展開する[49]。また群馬電力時代から競合していた京浜電気鉄道沿線地域でも、1924年6月に競争的行為を避けるという協定が締結されていたにもかかわらず競争が激しくなり、横浜船渠への供給(1,700キロワット)を東京電力が奪うといったことが起きた[49]。こういった激しい「電力戦」について需要家側からは、東京電灯のみに頼ると無理を押し付けられるので競争会社は必要である、と歓迎する意見が出ている[49]

東京電力の進出は、工場電化の進展や電力利用の普及を促進したという面もあった[49]。東京電灯から奪った需要家も相当数あったが、全体の8割近くは新規の需要であったのである[49]富士製紙江戸川工場(2,000キロワット)や日本電気(1,715キロワット)、芝浦製作所(1,600キロワット)などはそういった新規の需要家である[49]。京浜方面とあわせると、毎年3万キロワット以上の需要増加が見込まれる電力市場であったという[48]

電力戦の傍ら、1926年後半から建設中の発電所が相次いで竣工する。まず1926年5月、建設中の早川第三発電所から川崎第一変電所へ至る送電線(田代本線、送電電圧154キロボルト[52])が完成[42]。翌1927年1月より早川第三発電所が運転を開始し、続いて田代川第一発電所が8月に、田代川第二発電所が11月にそれぞれ運転を開始した[42]。これらの水力発電所以外にも鶴見町の東京火力発電所が1926年12月に完成、1927年5月には発電機がもう1基完成して竣工した[42]。さらに1926年10月には系列の上毛電力の手により伏田発電所が完成し、ここからの受電も開始している[42]

周辺への波及編集

 
東京電灯の中京地方進出を許可した逓信大臣望月圭介

東京電力対東京電灯の電力戦が行われていた当時、五大電力の一つで卸売り会社の日本電力も東京進出を目指し、東京への送電線を建設中であった[53]。東京電力はこの日本電力と提携して同社の東京進出に協力、相呼応して東京電灯を攻撃しようと企てた[46]。一方東京電灯は大同電力から電力を購入し東京方面へと供給していたことから、大同電力は東京電灯の側についた[46]。東京電力の親会社東邦電力と大同電力はともにかつての名古屋電灯を前身としており、大同電力は姉妹会社の競合会社に味方したことになる[54]

東京電力発足半年後の1925年12月、大同電力取締役に東京電灯副社長の若尾璋八が就任した[55]。大同電力が自社の株式を東京電灯に引き受けさせたため、大株主となった東京電灯を代表して若尾が入ることとなったものである[56]。ところが東邦電力もまた大同電力の設立の経緯から大株主であり、松永安左エ門も元から取締役に名を列ねていた[56]。当時大同電力副社長の増田次郎によると、東京電力を設立したばかりの松永は若尾の大同電力入りに反対し、株主総会上でも大株主の立場をもって拒否しようと試みるほどで、先輩の福澤桃介(大同電力社長、松永の慶應義塾時代以来の先輩)に対して謀反を起こしたと騒がれたという[56]

東京電力が東京郊外3郡での電力供給を許可された直後の1926年5月29日、東京電灯の若尾ら幹部は大同電力と協議し、大同が当時愛知・岐阜両県における電力供給許可を申請していたところに東京電灯も加わり、両社協力して東邦電力の地盤である中京地方への進出を目指すことを申し合わせた[46]。若尾らはその足で名古屋へと向い、翌30日に名古屋逓信局に対して中京地方での電力供給許可を申請する[46]。申請内容は、名古屋市をはじめとする愛知・三重両県下を供給区域とし、建設中の奈川発電所(長野県)を起点とする154キロボルト送電線を架設、同発電所などの余剰電力を電源として5万キロワットを供給する、というものである[57]。東京電灯のこの行動は東京電力の東京進出に対する報復とされる[58]。6月には名古屋営業所を設置し、需要家獲得に向けて予備勧誘を始めた[57]

しかしながら東京電灯の申請は翌1927年4月に当局より却下され、中京地方進出の目論みは潰えて5月に名古屋営業所は廃止された[57]。当時の内閣は憲政会の若槻礼次郎内閣で、申請を却下した逓信大臣は先に東京電力の申請を許可した安達謙蔵である[57]。だが同年12月5日、東京電灯は再度愛知・三重両県下における電力供給許可を申請する[57]。却下から再申請までの間に若槻内閣が退陣して立憲政友会による田中義一内閣が成立しており、新たに逓信大臣となった望月圭介は再申請を12月28日に許可した[58]。却下された申請が一転して許可となったのは、若尾と立憲政友会の太い繋がりが理由であるとされる[58]

終戦へ編集

 
三井銀行常務池田成彬
 
東京電灯会長郷誠之助(1927年就任)

1927年1月に東京への本格進出を果たした東京電力では、それ以来東京・川崎方面での供給成績を大きく伸ばし、1927年下期末(11月末)の時点では1年前の実績の約2.5倍にあたる約7万7,000キロワットの電力(数字は電熱用を除く)を供給していた[42]。会社全体での供給実績は、電灯供給71万5,078灯・電力供給13万1,583馬力(約9万8,000キロワット)に及ぶ[42]。事業の拡張に伴い1927年下期の電力料収入は前年同期比1.5倍の407万円に拡大し、総収入は758万円となった[59]。だが供給設備の相次ぐ拡充に伴う固定資産の増加率に比べて収入の増加率は伸び悩み、固定資産利益率についても東京電灯より低い4 - 5%で低迷した[59]。つまり積極経営の効果が収益面で現れておらず、好調な経営とは言い難い状況であった[59]。一方東京電灯では、東京電力との電力戦の影響により1927年上期より電力料収入が減少に転じ[60]、同年下期の電力料収入は前年同期に比べ146万円少ない1,665万円に低下した[61]。元々東京電灯の業績は利益率が低下して悪化傾向にあったが[60]、電力戦はさらなる利益率の低下をもたらしたのである[61]

電力戦による東京電力・東京電灯両社の経営悪化に、両社に対して巨額の融資をしていた金融機関が危機感を抱くに至る[59]。1927年下期の時点で、社債・借入金・支払手形をあわせた負債額は東京電力が8,947万円、東京電灯が2億4,839万円に達しており、これらの資金は主に三井銀行三菱銀行安田銀行などの金融機関によるものであった[59]。さらに東京電灯の場合は外債米ドル建ておよび英ポンド建て社債)の発行から国外にも債権者があった[59]。1927年3月に昭和金融恐慌が発生すると、電力戦の激化は金融機関を巻き込んで日本の金融システムそのものを危機に陥れる可能性も生じたため、金融機関のみならず大蔵省日本銀行などもこの問題を注視するようになる[59]

こうした状況を受けて、三井銀行筆頭常務池田成彬や安田銀行副頭取結城豊太郎が東京電力・東京電灯の和解・合併の斡旋に乗り出した[59]。特に東京電灯に対しては池田が人事にも介入し、1927年(昭和2年)7月に郷誠之助を会長に就任させ(社長は若尾が続投)、阪急電鉄創業者の小林一三を取締役として入れて、経営改革にあたらせることとなった[62]。両社合併への動きは7月に始まるが、9月になっても両社の意見の隔たりが大きく合併への合意には達しなかった[59]

1927年12月になると、金融恐慌の影響により両社とも建設資金の調達に窮するようになったことから、合併に関して歩み寄りがみられた[59]。池田の斡旋もあり、12月13日には以下の合併条件に対し両社間の同意がおおむね得られた[59]

  • 東京電灯対東京電力の合併比率は1対0.9(10対9)とする。
  • 東京電灯は東京電力に対して解散手当110万円を支払う。
  • 東京電力の松永安左エ門と宮口竹雄を東京電灯に取締役として入社させる。

だが東京電力の親会社東邦電力は、直前(5日)に東京電灯が中京地方への電力供給許可を申請していたことを問題視し申請を撤回するよう求めたが、東京電灯は譲歩せず合併交渉は紛糾した[59]。また東京電力は取締役兼営業部長の進藤甲兵も東京電灯に引き継ぐよう求めたが、これも東京電灯側は拒否し、両社の関係は一時険悪なものとなった[59]

年末になると両社の歩み寄りが見られ、両社は合併実現まで攻撃的な行動をとらない、進藤については社員として引き継ぐが出社・執務させない、という妥協がなり、合併への手続きが進められた[59]。そして12月24日、東京電力社長田島達策と東京電灯社長若尾璋八の間で両社の合併契約が締結されるに至った[59]

東京電灯との合併とその後編集

1927年12月24日付で東京電力と東京電灯の間に締結された合併契約の概要は以下の通り[63]

  • 合併に際して東京電灯を存続会社とし、東京電力は解散する。
  • 東京電灯は資本金を6,142万5,000円増加し(4億714万9,000円とする)、増加に伴う新規発行株式を東京電力株主に交付する。その割合は東京電力の株式10株に対し新株9株。
  • 東京電力の従業員は新規採用の形で東京電灯が引き継ぐ。
  • 役員への功労金や従業員退職金など東京電力が解散に際して要する費用については、東京電灯が支払う(別途協定により110万円と決定)。
  • 合併期日は1928年(昭和3年)4月1日とする。

上記契約は翌1928年1月双方の株主総会にて承認された[63]

その後の逓信省の認可に際し、需要家の便宜を図って独占的にならないこと、料金をすみやかに統一すること、という条件が付けられ、東京電灯は需要家に対する既存契約を料金を改定せずそのまま引き継ぐこととなった[59]。そして期日通りに同年4月1日付で両社の合併は実行に移され、東京電力は解散した[59]。水力9万3,247キロワット・火力4万8,150キロワットに及ぶ発電設備をはじめとする発送変電設備は東京電灯に引き継がれた[59]。また東京電力の傍系会社については、東京湾電気は東京電灯傘下に入り[42]、関東地方の上毛電力と群馬水電(須川電力から改称)は東京電灯へ供給する発電会社として存続したが[64]大井川電力(寸又川電気から改称)は東邦電力の傘下に残った[65]

東京電力の合併により東京電灯では東邦電力の持株比率が高まり、同社系列の東邦証券が全株式のうち4.6%を保有する筆頭株主となり、東邦電力自身も1.7%の株式を持つ大株主となった(1929年下期時点)[66]。合併時の合意の通り、合併後の1928年5月の株主総会で松永らが取締役に就任している[66]。また東京電灯社内では、同年3月に副社長となった小林一三により、さらなる経営改革が進められた[66]。東京電力の合併に伴い継承した諸設備によって電力の運用効率が改善されて供給コストの低減をもたらし、電力戦の終結による無理な料金値下げに歯止めがかけられたこととあわせて一時的に経営の安定に繋がった[59]。しかし1929年(昭和4年)9月、日本電力が南葛飾・南足立・北豊島3郡と横浜市鶴見区における電力供給を許可され、翌年より実際に供給を開始したことにより、今度は日本電力との間で需要家争奪戦を開戦した[67]。対日本電力の電力戦は東京電力のときとは異なって既存需要家の争奪戦が主体であり経営への影響はより大きく[67]、東京電灯の業績低迷は続いた[61]

また東京電灯は、東京電力を合併してから1年以上が経過した1929年10月、1927年12月末に電力供給の許可を受けていた中京地方進出へ動き出し、名古屋営業所を再設置した[58]。東京電力(東邦電力)との電力戦は終結していたにもかかわらず東邦電力への攻勢を仕掛けたのは、社長若尾璋八の強い意向のためという[58]。名古屋と知多半島岡田、三重県北部の富田の3か所に変電所を設置、白瀬発電所(愛知県、元早川電力所属)を起点に送電線を架設し、同年12月より中京地方での供給を開始した[57]。だが1930年6月、中京進出を主導した若尾が業績不振で社長を解任され、会長の郷誠之助が会長兼任で後任社長に就くと社内の状況は一変し、当時不況下であったこともあり、二重投資を避けるとして中京地方からの撤退が決定した[66]。1930年12月に東邦電力への事業譲渡認可があり、中京地方の事業は発電所を除いて同社へと譲渡された[66]。譲渡資産は総額348万8,716円90銭[66]。供給実績は約800キロワット程度で、東邦電力と競争するほどにはなっていなかったという[66]

電源開発編集

以下、沿革のうち前身会社時代を含めた発電所の開発史について記述する。

金井発電所(吾妻川)編集

 
金井発電所(2013年撮影)

群馬県を流れる利根川水系吾妻川は、須川(現在名白砂川、上流部に草津温泉がある)が流れ込む影響で水質が酸性を帯びており、工事への懸念から県内のほかの河川にて水力発電計画が浮上する中でも計画が立てられず取り残されていた[14]。群馬県出身の実業家田島達策は、この放置されていた吾妻川の有効活用を志し、1906年(明治39年)、県内の有志とともに吾妻川の水利権を申請する[14]。田島の申請と前後して浅野総一郎も吾妻川水利権を出願しており競願となったが、県当局の調停によって妥協がなり、同年9月、白砂川合流点の下流2里にある松谷を境界として水利権を分割し、その上流側が浅野側、下流側が田島側にそれぞれ許可された[14]

水利権を得た田島は早期の着工を目指したが、浅野側の発電所の放水路より取水する設計としてそちらの起工を前提としたため着工できなかった[14]。その間、吾妻川の各地で調査を行い、下流の金井・渋川であれば酸性の河水の影響による金属腐食のおそれはなく工事にまったく支障はない、との結論を得た[14]

吾妻川を開発すべく田島を副社長として1919年に群馬電力が発足。翌1920年(大正9年)4月、群馬電力は北群馬郡金島村(現・渋川市)にて金井発電所を着工した[68]。完成は1922年(大正11年)11月で、出力は1万800キロワット[68]。運転開始は同年12月である[23]。発電所からは東京方面へ至る送電線(群馬線)が架設された[68]。また酸性の強い河川であるためその対策として耐酸性の水車を設置している[68]

1928年時点における金井発電所の設備等は以下の通り[69]

1941年(昭和16年)に金井発電所は東京電灯から日本発送電へ出資された[71]太平洋戦争1951年(昭和26年)の電力再編成では東京電力に継承され[72]、東京電力金井発電所(地図)となっている。

渋川発電所(吾妻川)編集

金島発電所を建設した群馬電力は、第2期工事として1923年(大正2年)1月に渋川発電所を着工した[73]。所在地は金島発電所と同じく北群馬郡金島村[73]。出力は5,800キロワットで、日本で最初のサイフォン式水路を持つ発電所である[73]。先に完成した金井発電所の放水を利用している[16]1925年(大正14年)3月に完成し[73]、同年4月運転を開始した[74]

1928年時点における渋川発電所の設備等は以下の通り[69]

  • 取水河川:利根川水系吾妻川
  • 使用水量:毎秒1,200立方尺(約33.39立方メートル)
  • 有効落差:72尺(約21.82メートル)
  • 水車:エッシャーウイス製フランシス水車2台
  • 発電機:ウェスティングハウス・エレクトリック製三相交流発電機2台(容量4,250キロボルトアンペア)

金井発電所と同様に1941年東京電灯から日本発送電へ出資された[71]。戦後は東京電力に継承され[72]、東京電力渋川発電所(地図)となっている。

田島火力発電所編集

群馬電力が吾妻川に建設した水力発電所は冬季の渇水期に発電量が落ちることから、不足分を補う火力発電所を建設する方針としていた[75]。この方針により建設されたのが田島火力発電所で、1924年に着工、東京電力合併後の1925年末に完成した[75]

所在地は神奈川県川崎市田島町で、発電所出力は1万キロワット[76]。1928年時点における設備等は以下の通り[69]

  • ボイラ:エッシャーウイス製ボイラ6台(うち1台予備)
  • 原動機:エッシャーウイス製蒸気タービン2台(うち1台予備)
  • 発電機:ブラウン・ボベリ製三相交流発電機2台(容量5,000キロワット、うち1台予備)

早川第一発電所編集

 
早川第一発電所(2010年撮影)

山梨県を流れる富士川水系早川を開発すべく1918年に設立された早川電力は、まず大島発電所(後の早川第二発電所、1944年8月廃止[77])の建設に着手[10]1921年(大正10年)1月に完成させ、2月より運転を開始した[10]。この大島発電所の発生電力の一部を利用し、早川電力は2番目の発電所建設(1920年秋着工)を進めた[10]。そして1923年(大正12年)6月に榑坪発電所(後の早川第一発電所[77])を完成させ、同年7月より同発電所の運転を開始した[6]

所在地は山梨県南巨摩郡五箇村(現・早川町)で、発電所出力は2万キロワット[76]。富士川本流との合流点から4キロメートルほど早川を遡った場所の左岸側に発電所はあり、その上流約20キロメートルの地点に取水堰堤がある[78]。取水口は後に建設される早川第三発電所および田代川第一発電所の直下に位置し、このうち田代川発電所の水路が完成して田代川(大井川上流)からの通水が始まると、早川第一発電所でも常時出力が増加し、後に最大出力も2万5,100キロワットに拡大した[78]

1928年時点における早川第一発電所の設備等は以下の通り[69]

  • 取水河川:富士川水系早川
  • 使用水量:毎秒430立方尺(約11.97立方メートル)
  • 有効落差:738.5尺(約223.79メートル)
  • 水車:ボービング (Boving) 製ペルトン水車4台(うち1台予備)
  • 発電機:芝浦製作所製三相交流発電機4台(容量8,000キロボルトアンペア、うち1台予備)
  • 変圧器:芝浦製作所製
  • 送電線:
    • 早川第三発電所へ新倉線(送電電圧66キロボルト)を架設[70]
    • 神奈川県横浜市鶴見区の川崎第二変電所へ早川線(送電電圧66キロボルト)を架設[70]

1941年に早川第一発電所は東京電灯から日本発送電へ出資された[71]。戦後は東京電力に継承され[72]、東京電力早川第一発電所(地図)となっている。

田代川第一発電所編集

 
田代川第一発電所(左)と早川第三発電所(右)。手前は早川第一発電所取水堰堤。
(2010年撮影)

大井川上流部から取水し、分水嶺を貫いてその水を富士川水系早川に流して発電する、という計画は、1906年(明治39年)より設立計画が進められていた日英水力電気が初めに取り上げた[79]。その後、早川電力が大井川上流の田代川における水力開発を早川第一発電所の建設に続く第二期工事として計画し、別個に田代川水力電気株式会社を設立して事業を進めた[6]。当初の計画では、田代川の水を早川へと導水することで有効落差2,900尺余り(約800メートル)という大きな落差を得て4万馬力の発電力を得るとしていたが[6]、これを2段にわけて下段では早川支流の渓流からも取水して発電力を増加するのが有利とされて、上下2つの発電所を建設することとなった[80]。このうち下流側に建設されたのが田代川第一発電所である[80]。第二発電所とあわせ、日英水力電気の計画が形を変えて実現したものといえる[81]

1927年(昭和2年)8月、田代川第一発電所は運転を開始した[42]。なお運転開始前年の1926年4月に田代川水力電気は東京電力に合併されており、東京電力の手で竣工している[42]。所在地は山梨県南巨摩郡三里村(現・早川町)で、出力は1万5,500キロワット[76]。上流側にある田代川第二発電所から直接取水し、ほかに渓流からの取水もあわせて発電する[80]。放水路は早川を挟んで対岸にある早川第三発電所の放水路と連絡し、下流の早川第一発電所取水口に繋がる[80]

1928年時点における田代川第一発電所の設備等は以下の通り[69]

  • 取水河川:大井川水系田代川
  • 使用水量:毎秒217立方尺(約6.04立方メートル)
  • 有効落差:1,152尺(約349.09メートル)
  • 水車:ボービング製ペルトン水車1台
  • 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機1台(容量20,000キロボルトアンペア)

1941年に田代川第一発電所は東京電灯から日本発送電へ出資された[71]。戦後は東京電力に継承され[72]、東京電力田代川第一発電所(地図)となっている。

田代川第二発電所編集

大井川上流部の田代川における発電計画を2段に分割した際、上流側に設置されたのが田代川第二発電所である[80]。所在地は山梨県南巨摩郡三里村(現・早川町)で、出力は2万862キロワット[76]。田代川水力電気が建設していた発電所の1つで、東京電力への合併後の1927年11月に運転を開始した[42]

発電所自体は山梨県だが取水口は静岡県側に位置し、付近は田代川がU字型に蛇行した場所(通称・二軒小屋)になっている[80]。U字型の蛇行部分の両端に堰堤(田代ダム)を設け、その間を調整池として使用しつつ、下流側の堰堤脇から取水する[80]。また5キロメートル余りの水路の途中にも早川支流の渓流から取水できる地点がある[80]

1928年時点における田代川第二発電所の設備等は以下の通り[69]

  • 取水河川:大井川水系田代川
  • 使用水量:毎秒191立方尺(約5.31立方メートル)
  • 有効落差:1,625尺(約492.42メートル)
  • 水車:ボービング製ペルトン水車1台
  • 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機1台(容量26,000キロボルトアンペア)

田代川第一発電所と同様1941年に東京電灯から日本発送電へ出資された[71]。戦後は東京電力に継承され[72]、東京電力田代川第二発電所(地図)となっている。

早川第三発電所編集

早川第一発電所取水堰堤直上に建設されたのが早川第三発電所である[78]。所在地は山梨県南巨摩郡三里村(現・早川町)で、出力は6,600キロワット[76]。早川左岸にあり、対岸に田代川第一発電所があるが、同発電所と異なり早川より取水する[82]。取水口は早川のさらに上流にあり、ここから約5キロメートルの水路で導水して発電する[82]

田代川水力電気が建設していた発電所の1つで、東京電力への合併後の1927年1月に運転を開始した[42]。出力は周囲の発電所に比べると小さいが、田代川第一・同第二発電所の発生電力を集め、自所の発生電力とあわせて変電の上東京方面へと送電する役割を持つ[82]

1928年時点における早川第三発電所の設備等は以下の通り[69]

  • 取水河川:富士川水系早川
  • 使用水量:毎秒200立方尺(約5.57立方メートル)
  • 有効落差:493.5尺(約149.55メートル)
  • 水車:電業社製フランシス水車1台
  • 発電機:芝浦製作所製三相交流発電機1台(容量7,400キロボルトアンペア)
  • 変圧器:芝浦製作所製またはウェスティングハウス・エレクトリック製
  • 送電線:神奈川県川崎市の川崎第一変電所へ田代線(送電電圧154キロボルト)を架設[70]

早川第一発電所と同様1941年に東京電灯から日本発送電へ出資された[71]。戦後は東京電力に継承され[72]、東京電力早川第三発電所(地図)となっている。

東京火力発電所編集

 
発電所跡地に建つ石碑

田代川などでの水力開発とあわせて予備の火力発電所として建設されたのが東京火力発電所(後に鶴見火力発電所へ改称[83])である[84]1925年(大正14年)7月より基礎工事に着手、建築工事と機械の据付を同時並行かつ昼夜兼行で進めて完成を急ぎ[84]1926年(大正15年)12月発電機1基がまず完成[42]、翌1927年(昭和2年)1月より営業運転を開始し[84]、5月には残る1基も竣工した[42]

所在地は神奈川県川崎市大川町[84]。発電所出力は3万5,000キロワット[76]。1928年時点における設備等は以下の通り[69]

  • ボイラ:バブコック・アンド・ウィルコックス製ボイラ4台(うち1台予備)
  • 原動機:ゼネラル・エレクトリック製蒸気タービン2台(うち1台予備)
  • 発電機:ゼネラル・エレクトリック製三相交流発電機2台(容量35,000キロワット、うち1台予備)
  • 変圧器:芝浦製作所製

1939年に東京電灯から日本発送電へと出資された[85]。戦後は東京電力に継承されたが[86]、同社によって廃止されており現存しない。

本社・営業所所在地編集

1927年3月時点の本社および営業所所在地は以下の通り[87]

供給区域一覧編集

東京・神奈川編集

群馬電力が1923年5月に京浜電気鉄道より譲り受けた供給区域は以下の通り[20]。いずれも電灯・電力供給区域である。


早川電力が1921年7月に日英水力電気(未開業)より譲り受けた供給区域は以下の通り[27][89]。いずれも電力供給区域である。

東京電力が1926年5月に許可を受けた電力供給区域は以下の通り[49]

東京電力の供給区域となった上記地域[90]のうち、東京府の各市町村と神奈川県の一部(鶴見町・潮田町)は東京電灯の電灯・電力供給区域と重複していた[91]

群馬・山梨・静岡編集

1926年12月末時点での、群馬県・山梨県・静岡県における供給区域は以下の通り[90]。いずれも電灯・電力供給区域である。

群馬県 吾妻郡 中之条町名久田村沢田村(現・中之条町)
山梨県 南巨摩郡 万沢村富河村睦合村(現・南部町)、
豊岡村身延村下山村飯富村伊沼村八日市場村曙村大須成村静川村西島村(現・身延町)、
本建村硯島村都川村五箇村三里村西山村(現・早川町)、
五開村(現・富士川町
西八代郡 栄村(現・南部町)、
大河内村富里村共和村久那土村古関村(現・身延町)、
鴨狩津向村宮原村葛籠沢村落居村岩間村楠甫村(現・市川三郷町)、山保村(現・市川三郷町・身延町)
静岡県 市部 浜松市
浜名郡 曳馬村富塚村白脇村蒲村河輪村五島村新津村笠井町中ノ町村和田村豊西村市野村天王村飯田村芳川村吉野村神久呂村入野村積志村和地村伊佐見村篠原村北庄内村南庄内村村櫛村可美村雄踏町舞阪町赤佐村中瀬村北浜村竜池村小野口村(現・浜松市)、
新居町(現・湖西市
引佐郡 麁玉村気賀町中川村金指町井伊谷村奥山村伊平村東浜名村三ケ日町(現・浜松市)
磐田郡 見付町中泉町梅原村西貝村天竜村御厨村南御厨村向笠村大藤村長野村岩田村幸浦村上浅羽村東浅羽村西浅羽村福田町豊浜村於保村掛塚町十束村袖浦村富岡村井通村池田村敷地村広瀬村野部村(現・磐田市)、
袋井町笠西村久努村今井村三川村(現・袋井市)、田原村(現・袋井市・磐田市)、
二俣町上阿多古村下阿多古村光明村(現・浜松市)
周智郡 一宮村(現・森町
小笠郡 郡内全町村(現・掛川市菊川市御前崎市ほか)
榛原郡 郡内全町村(現・御前崎市・牧之原市島田市吉田町川根本町ほか)
志太郡 島田町大長村大津村六合村(現・島田市)、
藤枝町高洲村大洲村青島町稲葉村瀬戸谷村葉梨村岡部町(現・藤枝市)、広幡村西益津村(現・藤枝市・焼津市)、
焼津町東益津村豊田村小川町大富村和田村静浜村相川村吉永村(現・焼津市)、
徳山村東川根村(現・川根本町)
安倍郡 服織村南藁科村長田村豊田村(現・静岡市
庵原郡 内房村(現・富士宮市)、
小島村(現・静岡市)、
松野村富士川町(現・富士市
富士郡 芝富村(現・富士宮市)

年表編集

  • 1918年(大正7年)
  • 1919年(大正8年)
  • 1920年(大正9年)
    • 3月 - 早川電力、日英水電を合併[11]
    • 7月 - 群馬電力、吾妻電気(同年6月1日設立[17])を合併[12]
  • 1921年(大正10年)
    • 2月 - 早川電力、早川第二発電所運転開始[10]
    • 7月 - 早川電力、日英水力電気発起人より大井川の水利権および東京市近辺の電力供給権を譲り受ける[6]
  • 1922年(大正11年)
    • 2月 - 早川電力、天竜電力・福田電力・東遠電気を合併[11]
    • 11月 - 群馬電力、金井発電所運転開始[23]
  • 1923年(大正12年)
  • 1924年(大正13年)
    • 3月15日 - 早川電力、早川興業(12日設立)を合併。東邦電力の傘下に入り、31日社長に松永就任[24]
    • 9月 - 群馬電力、吾妻軌道を合併[18]
  • 1925年(大正14年)
    • 3月16日 - 早川電力と群馬電力が合併し、東京電力株式会社設立。社長田島達策、副社長松永安左エ門[42]
    • 4月 - 渋川発電所運転開始[74]
    • 12月 - 田島火力発電所運転開始[75]
  • 1926年(大正15年・昭和元年)
  • 1927年(昭和2年)
  • 1928年(昭和3年)
    • 4月1日 - 東京電灯との合併成立、東京電力解散[59]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 川崎町大師河原村田島村御幸村町田村生見尾村の6町村。1927年までにこれらの地域は川崎市または横浜市の一部になっている。
  2. ^ 一般の需要家に直接供給せず、発電送電変電設備を保有して大量の電力を他の電気事業者に供給することを電力の「卸売り」という。逆に一般需要家への配電設備を持ち電灯・電力の供給をなすことを「小売り」という。なお、当時の電気事業法では電気鉄道の経営も電気事業に含まれる(「電気事業 経営百態おろし売と小売」『東京朝日新聞』1925年9月22日付。「新聞記事文庫」収録、2015年12月25日閲覧)。

出典編集

  1. ^ a b 『株式年鑑』昭和3年度、1928年、474頁。NDLJP:1075356/337
  2. ^ 一例として「東電と東力の合併決定す」『中外商業新報』1927年12月15日付(神戸大学附属図書館 新聞記事文庫収録)。
  3. ^ 『株式年鑑』大正14年度、1925年、132頁。NDLJP:986998/149
  4. ^ a b 「早川電力創立総会」『東京朝日新聞』1918年6月29日付朝刊
  5. ^ a b c 「解剖と批判 早川電力の前途」
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 「早川電力株式会社の現況」
  7. ^ 『新富士製紙百年史』、6-15頁
  8. ^ 『関東の電気事業と東京電力』、279-283頁
  9. ^ a b 『大日本電力二十年史』、1-17頁
  10. ^ a b c d e f 「財界批判 早川電力」
  11. ^ a b c d e f 『東邦電力史』、187-189頁
  12. ^ a b 『株式年鑑』大正14年度、1925年、139頁。NDLJP:986998/152
  13. ^ a b c d 「群馬電力株式会社」(『財政と経済』)
  14. ^ a b c d e f g 『城山翁喜寿の賀』、125-133頁
  15. ^ a b c d 『城山翁喜寿の賀』、133-139頁
  16. ^ a b c d 「財界批判 群馬電力」
  17. ^ a b 「吾妻電気成立」『読売新聞』1920年6月3日付朝刊。
  18. ^ a b c d e f 『東邦電力史』、192-194頁
  19. ^ 『電気事業要覧』第13回、1922年、40-41頁、NDLJP:975006/50
  20. ^ a b 『京浜急行八十年史』、487-489頁
  21. ^ 『電気事業要覧』第13巻、1922年、10-11頁、NDLJP:975006/35
  22. ^ a b c d 『京浜急行八十年史』、108-109頁
  23. ^ a b c d e f g h i 『関東の電気事業と東京電力』、336-338頁
  24. ^ a b c d e f g h i 『東邦電力史』、189-192頁
  25. ^ a b 『人的事業大系』電力篇、38-43頁
  26. ^ 「浜松地方電気事業沿革史」、89-90・94頁
  27. ^ a b c 『日本コンツエルン全書』13、288-294頁
  28. ^ 『日本コンツエルン全書』13、35-37頁
  29. ^ a b c d 『日本コンツエルン全書』13、70-75頁
  30. ^ a b c 『日本コンツエルン全書』13、233-242頁
  31. ^ a b 『日本コンツエルン全書』13、88-90頁
  32. ^ a b 『日本コンツエルン全書』13、240-242頁
  33. ^ a b c 『人的事業大系』電力篇、27-30頁
  34. ^ a b 『中部地方電気事業史』上巻、161頁
  35. ^ a b c d e f 『関東の電気事業と東京電力』、310-312頁
  36. ^ 『関西地方電気事業百年史』、242-243頁
  37. ^ 『関西地方電気事業百年史』、235-236頁
  38. ^ 『関西地方電気事業百年史』、258-261・268-270頁
  39. ^ a b 『関西地方電気事業百年史』、244-245頁
  40. ^ a b 『中部地方電気事業史』上巻、180-181・184-188頁
  41. ^ a b 『私の履歴書』第21集、335-344頁
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 『関東の電気事業と東京電力』、338-342頁
  43. ^ 『東邦電力史』、194-195頁
  44. ^ a b c 「京浜に備うる電力戦線の陣容」『中外商業新報』1926年4月6日 - 10日連載。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録
  45. ^ 『新富士製紙百年史』、91-94頁
  46. ^ a b c d e f g h i 「東京電力は東京電灯を倒せるかどうか」
  47. ^ 『東邦電力史』、196-199頁
  48. ^ a b c 『東邦電力史』、201-202頁
  49. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『関東の電気事業と東京電力』、342-344頁
  50. ^ 『電力界の功罪史』
  51. ^ 『東邦電力史』、203-205頁
  52. ^ 『東邦電力史』、199-201頁
  53. ^ 『関東の電気事業と東京電力』、348-349頁
  54. ^ 『日本コンツエルン全書』13、101-104頁
  55. ^ 『大同電力株式会社沿革史』、62-65頁
  56. ^ a b c 『増田次郎自叙伝』、188-191頁
  57. ^ a b c d e f 『東邦電力史』、211-213頁
  58. ^ a b c d e 『関東の電気事業と東京電力』、347-348頁
  59. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『関東の電気事業と東京電力』、344-347頁
  60. ^ a b 『関東の電気事業と東京電力』、355-357頁
  61. ^ a b c 『関東の電気事業と東京電力』、366-368頁
  62. ^ 『関東の電気事業と東京電力』、362-364頁
  63. ^ a b c 『東邦電力史』、206-210頁
  64. ^ 『関東の電気事業と東京電力』、484-488頁
  65. ^ 『東邦電力史』、482-483頁
  66. ^ a b c d e f g 『関東の電気事業と東京電力』、364-368頁
  67. ^ a b 『関東の電気事業と東京電力』、351-354頁
  68. ^ a b c d 『渋川市誌』第3巻、359-361頁
  69. ^ a b c d e f g h 『電気事業要覧』第20回、1929年、302-305頁、NDLJP:1076983/179
  70. ^ a b c d 『電気事業要覧』第20回、1929年、425-427頁、NDLJP:1076983/240
  71. ^ a b c d e f 「日本発送電株式会社法第五条の規定に依る出資に関する公告」『官報』第4313号、1941年5月27日、NDLJP:2960811/11
  72. ^ a b c d e f 『関東の電気事業と東京電力』資料編、302-303・312頁
  73. ^ a b c d 『渋川市誌』第3巻、363頁
  74. ^ a b 『関東の電気事業と東京電力』資料編、90頁
  75. ^ a b c 『城山翁喜寿の賀』、138-139頁
  76. ^ a b c d e f 『電気事業要覧』第20回、1929年、234-235頁、NDLJP:1076983/145
  77. ^ a b 『関東の電気事業と東京電力』資料編、91頁
  78. ^ a b c 『日本の発電所』東部日本篇、26-29頁
  79. ^ 『大井川 その歴史と開発』、372-374頁
  80. ^ a b c d e f g h 『日本の発電所』東部日本篇、30-37頁
  81. ^ 『大井川 その歴史と開発』、423頁
  82. ^ a b c 『日本の発電所』東部日本篇、30-32頁
  83. ^ 『関東の電気事業と東京電力』資料編、85頁
  84. ^ a b c d e 『日本の発電所』東部日本篇、81-96頁
  85. ^ 「日本発送電株式会社法第五条の規定に依る出資に関する公告」『官報』第3482号、1938年8月11日、NDLJP:2959973/21
  86. ^ 『関東の電気事業と東京電力』資料編、312頁
  87. ^ 『電気年鑑』昭和2年版、1927年、141頁、NDLJP:1139309/122
  88. ^ 『電気年鑑』昭和2年版、1927年、巻末広告3頁、NDLJP:1139309/443
  89. ^ 『電気事業要覧』第13回、1922年、18-19頁、NDLJP:975006/39
  90. ^ a b 『電気事業要覧』第19回、1928年、115-117頁、NDLJP:1076946/84
  91. ^ 『電気事業要覧』第19回、1928年、109-110頁、NDLJP:1076946/81

参考文献編集

  • 企業史
    • 京浜急行電鉄社史編集班(編)『京浜急行八十年史』京浜急行電鉄、1980年。
    • 新富士製紙百年史編纂委員会(編)『新富士製紙百年史』新富士製紙、1990年。
    • 大同電力社史編纂事務所(編)『大同電力株式会社沿革史』大同電力社史編纂事務所、1941年。
    • 大日本電力(編)『大日本電力二十年史』大日本電力、1940年。
    • 中部電力電気事業史編纂委員会(編)『中部地方電気事業史』上巻・下巻、中部電力、1995年。
    • 東京電力(編)『関東の電気事業と東京電力』東京電力、2002年。
    • 東京電力(編)『関東の電気事業と東京電力』資料編、東京電力、2002年。
    • 東邦電力史編纂委員会(編)『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。
  • その他書籍
    • 大阪屋商店調査部(編)『株式年鑑』各号、大同書院。
    • 関西地方電気事業百年史編纂委員会(編)『関西地方電気事業百年史』関西地方電気事業百年史編纂委員会、1987年。
    • 駒村雄三郎『電力界の功罪史』交通経済社出版部、1934年。
    • 渋川市誌編さん委員会(編)『渋川市誌』第3巻通史編下、渋川市、1991年。
    • 中部電力(編)『大井川 その歴史と開発』中部電力、1961年。
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』各号、電気協会(逓信協会)。
    • 電気之友社(編)『電気年鑑』各号、電気之友社。
    • 日本経済新聞社(編)『私の履歴書』第21集、日本経済新聞社、1964年。
    • 増田完五(編)『増田次郎自叙伝』増田完五、1964年。
    • 松下伝吉『人的事業大系』電力篇、中外産業調査会、1939年。NDLJP:1458891
    • 日本動力協会『日本の発電所』東部日本篇、工業調査協会、1937年。NDLJP:1257046
    • 三宅晴輝『日本コンツエルン全書』13、春秋社、1937年。NDLJP:1278498
    • 湯口昌(編述)『城山翁喜寿の賀』三鱗商道団、1934年。NDLJP:1032381
  • 記事
    • 「群馬電力株式会社」『財政と経済』第4巻第8号、財政経済社、1920年8月、 21頁。
    • 「解剖と批判 早川電力の前途」『実業之日本』第23巻第17号、実業之日本社、1920年9月、 79-80頁。
    • 「財界批判 早川電力」『実業之日本』第24巻第14号、実業之日本社、1921年7月、 90-91頁。
    • 「財界批判 群馬電力」『実業之日本』第24巻第15号、実業之日本社、1921年8月、 92-93頁。
    • 「早川電力株式会社の現況」『実業公論』第9巻第8号、実業公論社、1923年9月、 143-145頁。
    • 「東京電力は東京電灯を倒せるかどうか」『事業之日本』第5巻第8号、事業之日本社、1926年8月、 42-46頁。
    • 浅野伸一「浜松地方電気事業沿革史」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第9回講演報告資料集 静岡の電気事業史とその遺産、中部産業遺産研究会、2001年、 70-99頁。