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東宝映画第二撮影所(とうほうえいがだいにさつえいじょ)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。現在の東宝の前身である東宝映画1939年(昭和14年)に開設した。現在は、東宝が最大株主である関係会社・国際放映が所有し、東京メディアシティとして稼働している。

東宝映画第二撮影所
Toho Pictures Second Studios
種類 事業場
市場情報 消滅
本社所在地 日本の旗 日本
157-0073
東京都世田谷区5-7-1
設立 1939年
業種 サービス業
事業内容 映画・テレビドラマ等の制作・撮影
主要株主 東宝映画
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目次

データ編集

名称の変遷編集

年号 名称 経営会社 備考
1939年 東宝映画第二撮影所 東宝映画 開所
1943年 東宝第二撮影所 東宝
1947年 新東宝映画製作所 新東宝映画製作所
1948年 新東宝撮影所 新東宝 1961年 倒産 - 大部分を日本大学に売却
1964年 国際放映撮影所 国際放映
1992年 東京メディアシティ 国際放映 現行

略歴・概要編集

 
加藤隼戦闘隊』(1944年)

1939年(昭和14年)、東宝映画は、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)の東側の土地にスタジオを新設、これを東宝映画第二撮影所とした。山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)の真珠湾のオープンセットは同撮影所内北側の敷地に建てられた。現在は砧サンライズマンション等住宅地になっている。

1943年(昭和18年)12月、東宝映画は東京宝塚劇場と合併して、現在の東宝となり[1]、同撮影所は東宝第二撮影所と改称した。翌1944年(昭和19年)、所内に航空教育資料製作所を設置、円谷英二を責任者とした。

第二次世界大戦後、東宝には争議が起こり、第二次東宝争議中の1946年(昭和21年)11月、大河内傳次郎ら東宝十大スターが「十人の旗の会」を結成して労働組合を脱退、他の脱退者とともに同撮影所を拠点に映画製作を始める。4か月後の1947年(昭和22年)3月25日、新東宝映画製作所(のちの新東宝)を設立、同撮影所を新東宝映画製作所と改めた。1948年(昭和23年)4月25日、株式会社新東宝が設立され[2]、同製作所は新東宝撮影所と改称した。

新東宝は1961年(昭和36年)8月31日に倒産、製作部門を分社化し同年11月15日にニッポン・アートフィルム・カンパニー(NAC)を設立、やがて同撮影所の敷地の大部分を日本大学等に売却、機能を縮小して、 1962年(昭和37年)1月からテレビ映画製作に乗り出す[2]。清算会社・新東宝は、東京放送フジテレビジョンの資本を得て、1964年(昭和39年)3月、国際放映に改組[2]、NACを吸収する。同撮影所は、ひきつづきテレビ映画を製作する国際放映撮影所と名称を変えて、稼働した。

1992年(平成4年)4月、同撮影所は、国際放映の経営のもと、テレビ番組収録用貸しスタジオ東京メディアシティとなり、現在に至る[2]

編集

  1. ^ 会社の沿革 - 会社情報、東宝、2009年10月6日閲覧。
  2. ^ a b c d #外部リンク欄、国際放映株式会社公式サイト内の「会社沿革」の項の記述を参照。二重リンクを省く。

外部リンク編集