東海道五十三次 (浮世絵)

歌川広重による浮世絵木版画の連作

東海道五十三次』(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、歌川広重による東海道宿駅を中心とした景観や習俗を描いた、名所絵浮世絵木版画の連作である(以下、五十三次とする)。本項は、天保5年(1834年)頃に版行された、保永堂版五十三次55図(#版元)について述べ、それ以降に版行された広重五十三次(#保永堂版以外の五十三次#五十三次図一覧)や、広重以外の五十三次についても触れる(#五十三次前史#広重以降の五十三次)。保永堂版制作に際し、広重は江戸京都を往復したとする説と、それを否定する説がある(#取材の有無)。

図a.五十三次画帖での「一立齋広重画目録」。一番最初に「東海道五十三次風景つゝきゑ(続画)」とある。目録の左は「右追々出板仕候間不相替御求御高覧/奉希候/保永堂/〇に竹/江戸れいかんしま志保町本宅/同所南しん堀一丁目/みなと橋西かど売場/地本双紙錦画問屋竹内孫八板」。

五十三次前史編集

広重は歌川豊広に師事し、文政年間(1818-30年)には、役者絵美人画を描いていたが、文政年間半ばに入ると、名所絵の依頼を受けるようになり、「東都名所」(天保初期。川口屋正蔵版。図b.)[1]等を残した[2]

最初期に東海道を描いた作例として、菱川師宣「東海道分間絵図」(図c.)が挙げられる。五十三次ものの連作としては、広重の師匠である歌川豊広(図d.)や葛飾北斎が描いている。後者には7揃いが確認されている(図e.)[3]。また文芸分野では、浅井了意の『東海道名所記』や十返舎一九東海道中膝栗毛』があげられる[4]

版元編集

五十三次の版元は当初、仙鶴堂保永堂の合版だったが、のちに保永堂単独となった。なお、仙鶴堂単独版行もある(表1参照)[6]

表1.五十三次版元区分(#五十三次図一覧と対照のこと。)
仙鶴堂・保永堂合版 11図 1.日本橋。2.品川。3.川崎。5.保土ヶ谷。6.戸塚。8.平塚。18.興津。21.丸子。23.藤枝。26.日坂。28.袋井。
仙鶴堂単独版行 1図 22.岡部。
保永堂単独版行 43図 上記以外。

保永堂が版元を興したのは、天保4年(1833年)とされる[7]。何故新興版元が大判大部の揃い物版行に関われたかには、三つの説がある[8][9][10]

  1. 主人の竹内孫八(筆名:眉山)が広重と狂歌仲間だったからとの説[9]
  2. 広重が仙鶴堂に五十三次版行を売り込んだものの、名の通っていない広重の版行を仙鶴堂側が乗り気になれず、保永堂を紹介した説[9]
  3. 保永堂の本業であった、質屋業務で仙鶴堂と取引があったとの説[11]

また、仙鶴堂が版行から降りた原因として、天保4年(1833年)に主人の鶴屋喜衛門が亡くなり、翌5年(1834年)に火災を受けていることを、鈴木重三が指摘する[12]

全図完結した時点で、画帖仕立てが上梓された。谷折り見開きの粘葉装で、上巻が27.掛川、もしくは29.見附で終わるものが記録されている[13]。造本を解体し、一葉(谷折りを伸ばして水平にしたもの)単位にした、表紙・扉題字・序文・広告奥付等が、三菱UFJ銀行貨幣資料館日本浮世絵博物館等に所蔵される。表紙には隷書草書版があり、上下巻だったと推測される[14]

特徴編集

東海道の横大判錦絵として最初の作とされる[15]

広重は、北斎による実景と異なった、演出された画に反感を抱き、自らは「真景」、つまり景観を忠実に描くのを旨とした[注釈 1]。ところが浅野秀剛は、大正時代の東海道写真集を参照し、広重の画にも演出が見られると指摘する。例えば8.平塚の場合、高麗山は左右非対称、向かって右側がより急斜面に描かれているが、写真では左右対称の緩やかな山に見える[18]。そのような作画を浅野は「実景を借りた虚構のイメージ」だが「虚構を虚構と感じさせない」ものと述べる[19]。また浅野は、 一枚摺名所絵で枠を付けたのは、五十三次が最初ではと指摘する[20]。14.原では、富士の頂が、27.掛川だと、揚がる凧が、枠を突き抜けている[21][22]

吉田漱は、北斎の五十三次が人物本位の道中風俗画であり、景観はないがしろなのに対し、広重のそれは、季節・天候の多彩さを取り入れた風景を描いたと指摘する[23]

取材の有無編集

五十三次を、取材に基づく作としたのは、明治期の浮世絵研究家である飯島虚心である。

天保の初年、広重幕府の内命を奉じ京師に到り、八朔御馬進献の式を拝観し、細に其の図を画きて上る。其の往来行々山水の勝を探り、深く感ぜる所あり。これより専ら山水を画くの志を起せりとぞ。三代広重の話 [注釈 2]

上記のように、広重は幕命として、内裏での駒牽行事描画の為上洛するが、道中での名勝に魅せられ、五十三次制作の経緯になったと考えられていた。「天保の初年」については、「五十三次画帖」の序文にて「天保ごとせにあたるむつき」とあり、かつ「八朔」の行事の後に作画されたとなると、天保元年から3年(1831-33年)の間と考えられる[26]。内田は前後の作例や落款から、天保3年(1833年)に上洛し、同4年(1834年)から同5年(1835年)にかけ作画したと推測する[27]

虚心の上洛説は、内田ら多くの論者に受け入れられる[28][29][30][31][32]

対して、虚心説にはじめて疑問を呈したのは小島烏水である。上洛説自体は認めるものの、御用絵師でなく、町絵師に過ぎない広重に、駒牽作画を命ずるだろうかと述べる[33]

また鈴木重三は、虚心の言説が明治半ばに纏められたものであり、『浮世絵類考』(慶応4年・1868年)や、広重の5代目の安藤勝蔵によってまとめられた「安藤家由緒書」(慶応2年・1866年)[34]に言及が無いことを指摘する[35]

永田生慈は鈴木の論を受けて、天保3年(1832年)3月に家督を譲った広重[注釈 3]が、幕府の公務を任ずるとは考え難いと指摘し、仮に定火消同心のままだったとしても、烏水が指摘するように、絵師としてさほど名声を得ていなかった広重に依頼をするだろうかと疑問を呈す。また、実際に東海道を往復したのなら、なぜ『東海道名所図会』(寛政9年・1797年)からの引用が多いのかと指摘する[37]

大久保純一は、永田も指摘した、五十三次が西に向かうにつれ、風景を伴わない人々の図や、『東海道名所図会』からの引用と考えられる図が増す点を指摘する(図f.及び表2.参照。)[38]

表2.『東海道名所図会』からの引用が窺える駅
5.保土ヶ谷。17.由井。18.興津。19.江尻。22.岡部。24.島田。25.金谷。28.袋井。31.舞阪。33.白須賀。34.二川。35.吉田。37.赤坂。39.岡崎。40.池鯉鮒。41.鳴海。42.宮。43.桑名。45.石薬師。48.関。49.坂之下。50.土山。52.石部。53.草津。54.大津。55.京師。以上、26駅。


 
図g.『豊年武都英』での絵草紙屋の店先描写。上段15行から上段最終行に「ハハア…大あたりだ。」と記される。

同時代の評判編集

鈴木重三は、『豊年武都英ほうねんむつのはなぶさ』(天保10年・1839年)での記述を提示する。

ハハア、東海道五十三次。ひろ重がよくかいた。このえをそろへてもつていると五十三次をいながら見るのだ。わざわざいくにやァおよばねへ。(略)たれでも此ゑをそろへてへといつてゐるぜ。(略)きんねんの大あたりだ。」(図g.)

この本は天保7年(1836年)の保永堂広告にて版行予告されていたものの、後年、他の書肆から出ることとなった。保永側の宣伝要素があったとしても、五十三次が広く受け入れられたことが分かる[39]

吉田暎二は、五十三次が100杯、つまり2万枚以上摺られたとし、それに次ぐのは歌川国貞「東海道五十三次(役者見立)」(#広重以降の五十三次) の7000枚だとする[40]。 大久保純一は、天明寛政年間(1781-1801年)に活動した鳥居清長喜多川歌麿の美人画は、世界でも数枚しかないものがあるが、五十三次は一図3桁は残ると指摘し、後者では線が潰れた、摩滅した版木で摺っているものが見られるのに対し、前者ではそのようなものが見られない点から、江戸末期においては、摺りの絶対数が増加していると述べる[41]


保永堂版以外の五十三次編集

保永堂版の商業的成功により、以後、諸版元から五十三次作画注文が広重の許に来た。それらは約20揃いあるとされるが[42][注釈 4]、大部分は中途で止められ、全宿版行に至るのは、限られる[44]。以下に主要5揃いを纏める[45][46][47][48][49]


題名(通称) 版元 版行年 判型・寸法 全図数 特徴 図版
東海道五拾三次之内(保永堂版) 保永堂・仙鶴堂 天保5年(1834年)頃 横大判(約26.5×39センチ)[50] 55図 本文参照。
 
保永堂版日本橋。メトロポリタン美術館蔵。
東海道五拾三次(狂歌入) 喜鶴堂 天保11-13年(1840-42年) 横中判(約19.5×26.5センチ)[50] 56図 55名の狂歌が添えられる。絵の内容と必ずしも一致していない。大判を半切した中判の紙を使い切るため、京師をもう1図増して偶数とした[51]
 
狂歌入日本橋。メトロポリタン美術館蔵。「日本橋/たゞ一すぢに都まで/遠くて近きはるがすみかな/あのや幸久」[52]
東海道五十三次之内(行書版) 江崎屋辰蔵江崎屋吉兵衛。後に山田屋庄次郎 [53] 天保12-13年(1841-42年)頃 横間判(あいばん、約33×23.5センチ)[54] 55図 題字が行書体。保永堂版との図柄近似が見られる。大判より一回り小さい[55]。彫摺の簡略化が見られる[56]
 
行書判日本橋(山田屋版)。ボストン美術館蔵。#五十三次図一覧の江崎屋版とは絵柄が異なる。
東海道(有田屋版) 有田屋清右衛門 天保14年-弘化4年(1843-47年) 横四切判 56図 大判を四等分した大きさ。保永堂版に近似した宿駅図が多い[57][58]
 
有田屋版日本橋。ホノルル美術館蔵。
東海道五十三次(隷書版) 寿鶴堂 嘉永年間(1848-54年) 横大判 55図 題字が隷書体。荒い描写を濃彩と摺りで補う。『東海道名所図会』からの引用が見られる[59]
 
隷書判日本橋。メトロポリタン美術館蔵。
五十三次名所図会(竪絵) 蔦屋吉蔵 安政2年(1855年) 縦大判 55図 後の名所江戸百景(安政3-5年)にも用いられる、縦構図、濃彩、近接拡大法(近像型構図)の採用[60][61]
 
竪絵判日本橋。国立国会図書館蔵。

五十三次図一覧編集

以下に保永堂版及び、行書版と隷書版の55図を掲載する。

図版番号 名前/読み 保永堂版
副題
行書版
副題
隷書版
副題
1 日本橋  
にほんばし 朝之景 / 行列振出 暁旅立の図 江崎屋版 なし
2 品川  
しながわ 日之出 鮫洲朝之図 鮫洲の茶や
3 川崎    
かわさき 六郷渡舟 六郷の渡し舟 六郷のわたし
4 神奈川    
かながわ 之景 浅間下より台を見る図 台の茶や
5 保土ヶ谷    
ほどがや 新町橋 新町入口 かたびら橋 かたびら川
6 戸塚    
とつか 元町別道 逢坂より宿を見る図 なし
7 藤澤    
ふじさわ 遊行寺 江のしま道 なし
8 平塚    
ひらつか 縄手 馬入川舟渡の図 なし
9 大礒    
おおいそ 虎ヶ雨 なし 鴫立沢西行庵
10 小田原    
おだわら 酒匂川 酒匂川かち渡し 酒匂川
11 箱根    
はこね 湖水 伊豆相模国境 夜中松明とり
12 三島    
みしま 朝霧 なし なし
13 沼津    
ぬまづ 黄昏 名物鰹節を製す なし
14    
はら 朝之富士 柏原立場 ふじの沼 なし
15 吉原    
よしわら 左富士 なし 名所左り不二
16 蒲原    
かんばら 夜之 岩渕よりふじ川を見る図 冨士川渡舟
17 由井    
ゆい 薩埵嶺 かち渡りゆひ川の図 なし
18 興津    
おきつ 興津川 田子の浦 清見ヶ関 清美ヶせき 清見寺
19 江尻    
えじり 三保遠望 清水之湊遠望 なし
20 府中    
ふちゅう 安部川 あべ川遠景 なし
21 丸子 / 鞠子    
まりこ 名物茶屋 なし なし
22 岡部    
おかべ 宇津之山 宇津の山之図 宇津の山
23 藤枝    
ふじえだ 人馬継立 瀬戸川歩行渡 なし
24 嶋田    
しまだ 大井川駿 大井川駿岸 大井川
25 金谷    
かなや 大井川 大井川遠岸 金谷坂 かなや駅 大井川
26 日坂    
にっさか 佐夜ノ中山 小夜の中山夜啼石 無間山遠望 夜啼石 無間山 小夜の中山
27 掛川    
かけがわ 秋葉山遠望 秋葉道 追分之図 秋葉山別道
28 袋井    
ふくろい 出茶屋ノ図 なし 名物遠州だこ
29 見附    
みつけ 天竜川 天龍川舟渡し 天龍川渡舟
30 濱松    
はままつ 冬枯ノ図 ざゞんざの なし
31 舞坂    
まいさか 今切真景 今切海上舟渡 なし
32 荒井    
あらい 渡舟ノ図 海上壹リ半舟渡之図 なし
33 白須賀    
しらすか 汐見阪 汐見阪風景 汐見阪
34 二川    
ふたかわ 猿ヶ馬場 猿ヶ馬場之図 猿ヶ馬場
35 吉田    
よしだ 豊川ノ橋 豊川 吉田橋 六月十五日 天王祭
36 御油    
ごゆ 旅人留女 なし 古街道本野ヶ原
37 赤阪    
あかさか 旅舎招婦ノ図 なし なし
38 藤川    
ふじかわ 棒鼻ノ図 山中宿 商家 なし
39 岡崎    
おかざき 矢矧之橋 矢はぎのはし 矢はぎ川
40 池鯉鮒    
ちりゅう 首夏 なし なし
41 鳴海    
なるみ 名物有松絞 名物有松絞り店 名産絞り店
42    
みや 熱田神事 熱田濱之鳥居 七里の渡し 熱田鳥居 寝覚の里
43 桑名    
くわな 七里渡口 海上七里ノ渡口 七里の渡舟
44 四日市    
よっかいち 三重川 参宮道追分之図 日永村追分 参宮道
45 石薬師    
いしやくし 石薬師寺 なし なし
46 庄野    
しょうの 白雨 人馬宿継之図 なし
47 亀山    
かめやま 雪晴 なし なし
48    
せき 本陣早立 旅籠屋 見世之図 なし
49 阪之下    
さかのした 筆捨嶺 筆捨山眺望 なし
50 土山    
つちやま 春之 すゞか山雨中之図 なし
51 水口    
みなくち 名物干瓢 なし 平松山美松
52 石部    
いしべ 目川ノ里 なし なし
53 草津    
くさつ 名物立場 なし 矢ばせの渡口 琵琶湖風景
54 大津    
おおつ 走井茶店 なし なし
55 京師    
けいし 三條大橋 三条大橋之図 三条大はし


広重以降の五十三次編集

諸版元は五十三次人気にあやかって、ほかの絵師にも五十三次を発注した。鈴木重三は15例をあげるが、2点を以下に示す[62]

  1. 歌川国貞「東海道五十三次之内(役者見立東海道五十三駅)」。嘉永5年(1852年)、合版。129図を確認(図h.)。#同時代の評判で言及した揃い絵である。縦絵の上部に駅名と関連する名所絵を、下部に役者を配する。名所絵は保永堂版と一致しないものが多い。
  2. 木村唐船作、南遊斎(歌川)芳重[63][64]画『東海道五十三駅鉢山図絵』。2冊56図。嘉永元年(1848年)。元禄堂(図i.)。30図に保永堂版からの援用が見られ、それ以外に、「狂歌入東海道」「行書東海道」等の図像(#保永堂版以外の五十三次)も取り入れられた[65]

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 歌川広重、富士見百図(安政6年・1859年)、序。「葛飾の卍翁、先に富嶽百景と題して一本を顕す。こは翁が例の筆才にて、草木鳥獣器材のたぐひ、或は人物都鄙の風俗、筆力を尽し、絵組のおもしろしきを専らとし、不二は其あしらひにいたるも多し。此図は、夫と異にして、余がまのあたりに眺望せしをうつし置きたる草稿を清書せしのみ(略)図取は全く写真の風景(以下略)。 」[16][17]
  2. ^ [24]。この記録の基となったのは、新聞『小日本』108号(1894年6月23日)での、「天保の初年、広重、或人(諸侯か或は旗下)に随行して、京師に赴き、行々山水を見て、深く感ずる所あり。これより専ら山水を画くの志を起せりとぞ(三世広重の話)(略)幕府八朔御馬進献の事あり、翁供奉して京師に上り云々(後略。編注:振り仮名は略した。) 」である。[25]より引用
  3. ^ 安藤家由緒書「安藤仲次郎…成長仕候付 文恭院様御代天保三年三月鉄蔵跡御抱入被仰付相勤」。鉄蔵が広重の実名で、仲次郎に家督を譲った。「文恭院」は徳川家斉[36]
  4. ^ 内田は東海道もので約40種あると述べる[43]

出典編集

  1. ^ 浮世絵学会 2008, p. 147大久保純一「川口屋正蔵」
  2. ^ 内藤 1992, p. 642-645.
  3. ^ 長田 2018, pp. 40-41.
  4. ^ 永田 2003, pp. 158-159.
  5. ^ 永田 2019, p. 321.
  6. ^ 鈴木ほか 2004, pp. 24-132.
  7. ^ 木村 2004, p. 198.
  8. ^ 竹内 1979, p. 10.
  9. ^ a b c 鈴木 1970, p. 33.
  10. ^ 木村 2004, p. 202.
  11. ^ 鈴木 2017, pp. 620-621.
  12. ^ 鈴木 2004b, p. 174.
  13. ^ 寂水 1917, p. 22、24.
  14. ^ 鈴木 2004a, p. 11-21.
  15. ^ 鈴木 2004b, p. 168.
  16. ^ 鈴木 1970, pp. 81-82.
  17. ^ 浅野 1998, p. 33.
  18. ^ 浅野 1998, pp. 38-39.
  19. ^ 浅野 1998, p. 48.
  20. ^ 浅野 1998, pp. 41-44.
  21. ^ 吉田 1976, p. 102.
  22. ^ 神谷・前田 2017, pp. 25、40-41前田「川口屋正蔵」「原」「掛川」
  23. ^ 吉田 1976, pp. 67、69-71.
  24. ^ 虚心 1993, p. 156.
  25. ^ 鈴木 2004b, p. 167.
  26. ^ 内田 1932, pp. 145-146.
  27. ^ 内田 1932, pp. 146-148、210-212.
  28. ^ 内田 1932, p. 145.
  29. ^ 烏水 1914, pp. 71-73.
  30. ^ 玉林 1993, p. 56.
  31. ^ 山口 1979, p. 80.
  32. ^ 吉田 1976, pp. 66-68.
  33. ^ 烏水 1914, p. 72.
  34. ^ 鈴木 1970, pp. 120-121.
  35. ^ 鈴木 2004b, pp. 167-168.
  36. ^ 鈴木 1975, pp. 19、31、121.
  37. ^ 永田 1983, pp. 42-43.
  38. ^ 大久保 2004, p. 177-178、181.
  39. ^ 鈴木 2004b, pp. 168-169.
  40. ^ 吉田 1974, p. 59「一杯」。浮世絵一図を一度に200枚摺る単位を「一杯」とする。
  41. ^ 大久保 2013, p. 44.
  42. ^ 鈴木 2004c, pp. 205-206.
  43. ^ 内田 1932, pp. 323-324.
  44. ^ 鈴木 2004c, p. 203.
  45. ^ 前田 2017, pp. 342-347.
  46. ^ 長田 2018, pp. 28-35.
  47. ^ 内田 1932, p. 232.
  48. ^ 内田 1932, pp. xxi-xxv作画総目録東海道之部
  49. ^ 鈴木 2004c, pp. 204-205.
  50. ^ a b 浮世絵学会 2014, p. 271.
  51. ^ 前田 2017, pp. 343-344.
  52. ^ 鈴木ほか 2004, p. 12.
  53. ^ 鈴木 1970, p. 344.
  54. ^ 浮世絵学会 2014, p. 270.
  55. ^ 前田 2017, p. 344.
  56. ^ 鈴木 1970, pp. 60-61.
  57. ^ 久保惣 2014, p. 4.
  58. ^ 神谷・前田 2017, p. 134.
  59. ^ 鈴木 1970, pp. 67-68.
  60. ^ 前田 2017, p. 346.
  61. ^ 赤木 2018, p. 93.
  62. ^ 鈴木 2004c, pp. 206-211.
  63. ^ 国書 1990, p. 622.
  64. ^ 国書 1991, p. 107.
  65. ^ 新井 2019, p. 1-15.

参考文献編集

  • 竜田舎秋錦編『新増補浮世絵類考』、1868年。
  • 小島烏水『浮世絵と風景画』前川文栄閣、1914年8月5日。doi:10.11501/951456
    • 小島烏水「浮世絵と風景画」『小島烏水全集13』大修館書店、1984年3月1日、1-369頁。
  • 寂水生「東海道五十三次横絵の題字と奥附に就いて」『浮世絵』第26号、浮世絵社、1917年7月1日、 22-25頁。
  • 内田実『広重』岩波書店、1932年。
  • 飯島虚心玉林晴朗校訂『浮世絵師歌川列伝』畝傍書房、1941年9月。
    • 飯島虚心、玉林晴朗校訂『浮世絵師歌川列伝』中央公論社中公文庫〉、1993年6月10日。ISBN 4-12-202007-7
      • 玉林晴朗「浮世絵師歌川列伝解説」『浮世絵師歌川列伝』、1993年6月、31-65頁。
  • 丹波恒夫『広重一代』朝日新聞社、1965年。
  • 鈴木重三『広重』日本経済新聞社、1970年11月25日。
  • 吉田暎二『浮世絵事典定本 上巻』画文堂、1974年12月25日。
  • 鈴木重三「広重の生涯と画業-問題点を中心に」『広重 太陽浮世絵シリーズ3』平凡社、1975年7月、37-49頁。
  • 吉田漱『東海道五拾三次 愛蔵普及版浮世絵大系14』集英社、1976年6月29日。
  • 山口桂三郎『広重 愛蔵普及版浮世絵大系11』集英社、1979年6月30日。
  • 竹内洋一郎「保永堂竹内眉山の系譜」『季刊浮世絵』第78号、画文堂、1979年7月5日、 10-20頁。
  • 永田生慈「広重の動静と作品 問題点を中心として」『抒情絵師 広重画業展』太田記念美術館編、1983年3月1日、35-44頁。
  • 森末義彰市古貞次堤精二編『補訂版国書総目録6』岩波書店、1990年7月6日。
  • 森末義彰、市古貞次、堤精二編『補訂版国書総目録 著者別索引』岩波書店、1991年1月18日。
  • 内藤正人「歌川広重」『週刊アーティスト・ジャパン』第21号、同朋舎出版、1992年7月7日。
  • 浅野秀剛『広重 浮世絵を読む5』朝日新聞社、1998年7月20日。ISBN 4-02-257204-3
  • 永田生慈「歌川広重」『東海道 人と文化の万華鏡』ウェッジ、2003年7月29日、155-164頁。
  • 鈴木重三、木村八重子、大久保純一『保永堂版東海道五拾三次』岩波書店、2004年1月23日。ISBN 4-00-008080-6
    • 鈴木重三「画帖仕立て保永堂版『東海道五拾三次』の持つ意義-序にかえて」『保永堂版東海道五拾三次』、2004年1月23日、11-16頁。
    • 鈴木重三「保永堂版『東海道五拾三次』の成立」『保永堂版東海道五拾三次』、2004年1月23日、166-174頁。
    • 大久保純一「保永堂版『東海道五拾三次』の画面構成」『保永堂版東海道五拾三次』、2004年1月23日、175-181頁。
    • 木村八重子「版元竹内孫八の事績」『保永堂版東海道五拾三次』、2004年1月23日、191-202頁。
    • 鈴木重三「広重「東海道絵」の展開」『保永堂版東海道五拾三次』、2004年1月23日、203-211頁。
  • 国際浮世絵学会編『浮世絵大事典』東京堂出版、2008年6月30日。ISBN 978-4-490-10720-3
  • 大久保純一『浮世絵出版論』吉川弘文館、2013年4月10日。ISBN 978-4-642-07915-0
  • 「大浮世絵展」企画委員会、国際浮世絵学会ほか編『大浮世絵展』読売新聞社、2014年1月2日。

関連項目編集

外部リンク編集