松倉勝家
松倉 勝家(まつくら かついえ)は、江戸時代前期の大名。肥前国島原藩2代藩主。初代藩主・松倉重政の嫡男。領国に悪政を敷き、島原の乱を引き起こした。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長2年(1597年) |
死没 | 寛永15年7月19日(1638年8月28日) |
別名 | 重次 |
官位 | 従五位下長門守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 肥前島原藩主 |
氏族 | 松倉氏 |
父母 | 父:松倉重政、母:不詳 |
兄弟 | 勝家、重利、三弥、藤堂嘉以正室、坊城俊昌室 |
妻 | 正室:片山宗哲(与安)の娘 |
乱の鎮定後は江戸幕府に領国経営失敗と反乱惹起を問責され、大名としては異例の斬首刑に処された。
生涯編集
父・重政と共に島原城とその城下町の新築、参勤交代の費用、計画のみで頓挫したルソン遠征の準備など種々の口実を設け、また独自に検地を実施して実質4万石程度の石高を10万石と過大に見積もり、領民に10万石相当の過重な年貢・労役を課した。これには豪勢な島原城を改築(城を全面白色に塗色するなど)し、他藩に自己の存在をアピールしようという意図があった(外様大名ゆえのコンプレックスがあったと小和田哲男が指摘している)[1]。さらに、領内に多かったキリシタンへの弾圧も残忍を極めた。
寛永7年(1630年)に父・重政が急逝した後を受けて藩主となってからは、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめた。寛永11年(1634年)は悪天候と干ばつから凶作となったが、勝家は容赦せず重税を取立てた。米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して厳格に取り立てたことが多くの記録に残る(『鍋島勝茂公譜』、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記など)。
やがて勝家は年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から、妻や娘を人質に取るようになったとされる。前述のクーケバッケルや島原の乱の記録を残した長崎のポルトガル人ドアルテ・コレアは、人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を「蓑踊り」と呼んでいたという記録を残している。ただし蓑踊りに関する一連の記述については、一揆勢・松倉勢ともに日本側の記録がなく、クーケバックルらが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の蓑踊り(火刑)を剽窃したとの見方もある[2][3]。
ともあれ、弾圧が厳しかった事自体は日本側の信憑すべき記述にも残されており、『黒田長興一世之記』によれば、寛永14年(1637年)10月、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。村民は庄屋宅に集まり何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう出せるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。たまりかねた領民は、10月25日ついに蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。これが島原の乱の始まりである。
改易・斬首編集
乱の鎮圧後、寛永15年4月4日(1638年5月17日)、勝家は肥前唐津藩主・寺沢堅高と共に反乱惹起の責任を問われた。勝家は改易、所領を没収され、4月12日には美作津山藩主・森長継に預けられた。『嶋原一揆松倉記』によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に護送され、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首刑に処せられた。
大坂夏の陣以降、大名が武士に与えられた最期の名誉である切腹さえも許されず斬首刑に処せられたのは極めて異例のことであり、事実上、江戸時代を通じて斬首刑に処された大名は勝家ただ一人だけである[4]。大反乱を引き起こす原因を作った勝家の失政を、幕府側が極めて重大な罪と見なしたことを示している。
[要出典]
勝家には2人の弟がいたが、長弟の重利は讃岐国、陸奥国会津と預けられた後、明暦元年(1655年)に自殺。次弟の三弥は命は助けられたものの、浪人となってしまった。重利の系統は300俵の旗本として存続している。