松前崇広

日本の江戸時代後期~末期(幕末)の大名・老中。松前藩9代藩主松前章広六男で、12代藩主

松前 崇広(まつまえ たかひろ、旧字体松󠄁前󠄁 崇廣)は、江戸時代後期の大名蝦夷地松前藩の第12代藩主。のちに老中にもなった。官位従四位下侍従

 
松前崇広
松前崇広
時代 江戸時代後期
生誕 文政12年11月15日1829年12月10日
死没 慶応2年4月25日1866年6月9日
改名 為吉(幼名)、崇広
別名 盈之助(通称)、業甫(字)、存斎・霞城・陽浦(号)
戒名 崇行院殿英烈靖貞大居士
墓所 松前町の法幢寺
官位 従五位下伊豆守従四位下侍従
幕府 江戸幕府寺社奉行老中
主君 徳川家慶家定家茂
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 松前章広笠原紋十郎の姉
養父松前昌広
兄弟 市之助、染子、欣子、見広、久之助、伊勢子、初子、朗子、成子、聿子、重広広経崇広
正室相馬益胤の娘・維子
武子、悌之助、茂子、隆広、邦子、増子、鋭子
養子徳広
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生涯 編集

文政12年(1829年)11月15日、第9代主・松前章広の6男として福山城にて誕生。幼少期は武術、とくに馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学英語兵学を学び、さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通であった。

崇広の甥で第11代藩主・松前昌広が病床にあり、昌広の嫡男・徳広もまだ幼少であったので、嘉永2年(1849年)6月9日、昌広の隠居によりその養子として家督を相続し、第12代藩主となった。崇広は家督相続の挨拶のために、7月江戸に出府し、第12代将軍徳川家慶御目見し、従五位下、伊豆守に叙位・任官され、また北方警備強化のため、新たに城を築城するよう命じられ、これにより陣屋住まいから城主とされた。この城は嘉永6年(1853年)に完成し、松前城と呼ばれ、天守閣持ちの伝統的な建築技法を使った城としては江戸時代最後の城となった。

安政元年(1854年)6月、幕府は対露警備強化の観点から箱館奉行を再設置し、安政2年(1855年2月23日にはそれまで松前藩領だった箱館周辺8ヶ村と全蝦夷地を幕府直轄とした。代地として陸奥国伊達郡梁川、出羽国村山郡東根、出羽尾花沢に合計4万石を与えられ、毎年18,000両を下賜されることになったが、それまでの蝦夷地での交易権を喪失した。このため藩財政は窮乏することになる。また、折しもこの年はニシン漁が不漁であり、その原因を巡って場所請負人と中小漁民が衝突する網切騒動が発生し、松前藩・江戸幕府を巻き込んだ騒動となった。

老中就任 編集

 
松前崇広の肖像

一方、幕府は西洋通の崇広を文久3年(1863年4月23日寺社奉行に起用し、その後、元治元年(1864年7月7日老中格兼陸海軍総奉行(慶応元年(1865年9月11日陸海両軍総裁と改称)になり、同年11月10日老中に抜擢した。また同年11月19日、天領となっていた松前西在の乙部より熊石までの8ヵ村の還付を受けた。手当金700両が削減された。慶応元年(1865年)5月には第二次長州征討に家茂の供をして京都、ついで大坂に至り、9月に陸軍兼海軍総裁となった。当時、幕府はの4ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放を内容とする条約を締結したが、朝廷から勅許が得られず、条約内容が履行されない事態だった。4ヶ国は軍艦を率いて兵庫に進出、兵庫開港を要求した。

この事態を受けて、老中の阿部正外と崇広は独断で兵庫開港を決定した。このため、10月1日に朝廷は正外と崇広に対して官位剥奪、謹慎を命ずる勅命を下した。将軍家茂はやむなく正外・崇広両閣老を免職し、国許謹慎を命じた。

崇広は慶応2年(1866年)1月に松前に帰還したが、同年4月25日、熱病により松前で死去した。享年38。跡を養子の徳広が継いだ。

年譜 編集

官位 編集

系譜 編集

父母

正室

子女

養子

関連項目 編集