松平信定

戦国武将。松平長親の三男。桜井松平家初代

松平 信定(まつだいら のぶさだ)は、戦国時代武将。三河松平氏の一族で、宗家5代当主・松平長親の三男[1]碧海郡桜井村(現在の愛知県安城市桜井)を拠点とし[1]桜井松平家初代となった。

 
松平信定
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文7年11月27日1538年12月18日
別名 通称:与一(與一)[1]内膳正[1](内膳)[注釈 1]
神号 五十橿戈衝立豊柱根命[注釈 2]
戒名 菩提寺殿勝誉一心道見大居士[注釈 3]
墓所 桜井山菩提寺愛知県安城市桜井町)[3]
主君 松平信忠清康→(一説に)織田信秀松平広忠
氏族 桜井松平家
父母 父:松平長親
兄弟 信忠親盛信定義春利長
松平親房
清定松平親乗室、水野信元室、
松平康忠継室、織田信光
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桜井城址の碑(愛知県安城市桜井町)
桜井山菩提寺にある松平信定の墓(左から3番目)

松平宗家の家督を巡り、長兄の信忠との対立に始まり、清康広忠と宗家3代に亘り反意を示したが敗れた。

略歴編集

誕生・碧海郡桜井に分出編集

15世紀の末頃、松平宗家の松平長親の三男として誕生[1](二男とする説もあるという[1])。

長兄の信忠は松平宗家の跡目でありながら一族・家臣からの人望に乏しく、大将としての器量もなかったゆえに松平党は統率を欠いた。このため三男であった信定の家督継承を望む声があり、また父・長親からの期待も受けたともいわれる。しかし叔父・松平親房(親忠の四男、入道宗安)の婿養子に出されたため、宗家跡目の候補から外され、叔父の所領・三河国碧海郡桜井(安城市桜井)に桜井城を築いて居城とした。

やがて、信忠は宗家の家督を継ぐも、その暗愚を咎められ一門・家臣等によって短期で隠退させられ、その子・清康が継いだ。

甥に仕えるも、なお宗家跡目を窺う編集

大永3年(1523年)、松平宗家の家督を継いだ甥・清康に仕えることになった。しかし、信定は宗家に対して従順といえる姿勢ではなかった。大永6年(1526年)には氏族が敵対していた尾張国守山城主となった織田氏と縁を結んだ(嫡男・清定の室に織田信秀妹を迎えたとされ、のちに娘を織田信光に嫁がせたともいう)。

清康の指揮のもと、享禄2年(1529年)、信秀家臣酒井秀忠の居城・品野城(瀬戸市)を落として居城としたが、この頃から信定は清康に対して不穏な動きを示すようになった。清康は外征の矛先を今川氏輝麾下にあった東三河に転じ、享禄3年(1530年)の八名郡熊谷実長の居城宇利城攻撃に参陣する。『三河物語』によれば、宇利城大手口の寄せ手として、次兄の福釜松平家親盛と共に戦うが、劣勢となった親盛に病と称して助勢を送らなかったため、結果として親盛の父子を死なせた。これが本陣で目撃していた清康の逆鱗に触れ、合戦後に衆目の前で面責を受けたという(一説にこれを深く恨んだともいう)。また、同年に牧野信成吉田城を攻めた際、城の西岸・宝飯郡下地において城方と会戦した(下地合戦[注釈 4])際、緒戦の戦況の不利に興奮し敵中への突撃を試みる清康に対して、「大将に討ち死にをさせよ」と発言し敢えて制止しなかったともいう。

宗家押領の失敗と信定の死編集

ところが、天文4年(1535年)、遠征先の尾張国守山において清康が陣中にて急死する(森山崩れ)。この遠征に加わらなかった信定は(織田氏に通じていたとの見方もある)、松平宗家の混乱に乗じて、松平家総領の座を巡って清康の遺児の竹千代(松平広忠)と対立。信定は竹千代の居城で清康の居城であった岡崎城を占領した。竹千代は家臣らに守られ伊勢に逃れた。

しかし、広忠の近臣・阿部定吉の働きなどにより、東条吉良氏吉良持広の申し入れで駿河国戦国大名今川氏今川義元らの支持を相次いで取り付けた広忠ら主従は駿河にて今川義元と会談、翌年には今川軍の後援を得て幡豆郡の室城へ入城した。これに対し信定は、岡崎を奪回されるのを恐れてこれを攻めるも失敗。大久保忠俊ら三河に残る広忠派の譜代家臣が広忠の岡崎復帰を支援した。翌天文6年(1537年)6月、信定の岡崎城留守居であった松平信孝(三木松平家。信定の甥、清康の弟)が広忠派に転身し[注釈 5]、広忠を岡崎城に迎え入れた。情勢の不利を悟った信定は広忠に帰順した。

松平家の総領争いは鎮静化するも、信定は広忠に対して恭順とは程遠い態度をとり続けた。このため、広忠派であった弟松平義春とすらも対立した。天文7年11月27日1538年12月18日)に死去[3]

長男・清定(内膳正・与一)や孫・家次(監物丞)も宗家に反意を示していたが、永禄7年(1564年)春、三河一向一揆の終息と共に宗家に完全に帰服した。

系譜編集

備考編集

  • 桜井松平家は江戸時代に入ると各地に転封するが、1711年に10代松平忠喬が移封されて以後摂津国尼崎藩に定着した。明治維新後の1882年に創建された桜井神社(兵庫県尼崎市)には、信定以来16代櫻井忠興(最後の藩主)までの歴代当主が祀られている[6][7][2]。創建当初は信定を主祭神、8代忠重(一時改易された桜井松平家を再興)と10代忠喬を併座として祀り、のちに祭神が追加されたという[2]。神号は五十橿戈衝立豊柱根命[6][2](いかしほこつきたつとよはしらねのみこと[2])。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 『三河物語』では「松平内前(内膳)殿」と記される。
  2. ^ いかしほこつきたつとよはしらねのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[2]
  3. ^ 『寛政譜』には法号「道見」[3]菩提寺の墓石写真(左から3番目)に全名が見られる。
  4. ^ ただし、この合戦を天文元年(1532年)とする説もある。
  5. ^ 信孝を有馬温泉湯治に行かせた隙に、とも伝わる。
  6. ^ 『寛政譜』の康忠の項には記載がない[5]

出典編集

  1. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.25
  2. ^ a b c d e f 櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.26
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.49
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四十、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.205
  6. ^ a b c 櫻井神社”. 兵庫県神社庁. 2021年11月27日閲覧。
  7. ^ a b 桜井神社”. 尼崎市神社あんない. 神道青年会尼崎市支部. 2021年11月25日閲覧。

参考文献編集

  • 『寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/22
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)

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