松平信順
松平 信順(まつだいら のぶより)は、三河吉田藩の第4代藩主。松平伊豆守系大河内松平家8代。
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 寛政5年6月7日(1793年7月14日) |
死没 | 天保15年3月2日(1844年4月19日) |
改名 | 長次郎(幼名)→信順 |
戒名 | 承天院殿乾道元性大居士 |
墓所 | 埼玉県新座市野火止の平林寺 |
官位 | 従五位下、駿河守、伊豆守、従四位下、侍従、刑部大輔 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
藩 | 三河吉田藩主 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平信明、母:千枝(久須美氏、恵覚院) |
兄弟 | 某、信順、篤之助、泉吉郎、本庄道貫、信厚、津軽順承、某、深井信恭、某、忠質、内藤忠行、大森頼実、阿部正瞭、孝、雅(酒井忠器室)、栄、従(安藤信由室)、錦(仙石政美室)、厚(松平正敬室)、睦(永井直養室)、庸(建部政醇室) |
妻 |
正室:錬姫(牧野忠精の娘) 継室:延姫(加納久周の娘) |
子 | 信宝、章次郎、某、徽(松平康寿縁女)、令、綜、貞(信宝養女、松平信璋室)、愛(戸沢正実室のち松平直巳室) |
生涯
編集寛政5年(1793年)、松平信明の次男として江戸西丸下屋敷で生まれる。寛政9年(1797年)10月25日に嫡子となり、信順と名乗る。享和3年(1803年)9月22日、将軍家斉・世子家慶に御目見する。文化2年(1805年)12月16日、従五位下・駿河守に叙任される。
文化14年(1817年)8月に父が病死し、10月16日に家督を相続する。同21日に伊豆守と改める。襲封直後には、国元の家臣に対して文武出精・質素節倹などを指示する「御直書」を発している。文政元年(1818年)8月24日、奏者番に就任する。文政8年(1825年)5月6日、寺社奉行に就任する。天保2年(1831年)5月25日に大坂城代に就任し、従四位下に叙される。天保5年(1834年)4月11日に京都所司代となり、侍従に任じられる。天保8年(1837年)2月に大坂で大塩平八郎の乱が発生すると京都市中の警備を強め、朝廷への事件の報告や江戸・大坂間の連絡確保などに当った。その後江戸に召しだされて5月16日に老中に就任するが、8月6日に病を理由に辞任する。わずか3か月で老中を辞任したのは、同役の水野忠邦と意見が合わなかったためとも言われている。天保13年(1842年)12月13日に隠居して刑部大輔と改め、家督は嫡子の信宝が相続した。天保15年(1844年)に小名木川屋敷で死去。享年52。
人物
編集学問を重んじ、父が招聘した大田錦城に儒学を学んだ。吉田へ帰国した際には錦城を伴い藩校時習館で講義させ、自らも聴講した。また中山美石に国学を学び、後に本居大平の門人となった。和歌にも通じており、本居春庭の和歌を集めた『春庭歌集』を編集したほか、信順自身が詠んだ和歌も多数残されている。
京都所司代を務めていた際、天保の大飢饉による窮状においては、京都に救恤小屋を設けて、粥などを民衆に与えた。
系譜
編集父母
- 松平信明(父)
- 千枝、久須美氏、恵覚院(母) - 側室
正室、継室
子女
参考文献
編集- 『豊橋市史』第2巻・第6巻