松平忠喬
松平 忠喬(まつだいら ただたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。桜井松平家10代当主[2]。信濃国飯山藩第2代藩主、のち遠江国掛川藩主を経て、1711年に摂津国尼崎藩主となった。以後桜井松平家は7代160年間にわたって尼崎を治め、廃藩置県まで続く[3]。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 天和3年1月9日(1683年2月5日) |
死没 | 宝暦6年2月5日(1756年3月5日) |
改名 | 倶武(初名)[1]→忠喬 |
別名 | 勝千代[1](幼名)、与七郎[1] |
神号 | 波奈久波志佐久良命[注釈 1] |
戒名 | 霊台院殿仁誉興徳道融大居士[3] |
墓所 | 兵庫県尼崎市の深正院[1][4][3] |
官位 | 従五位下、従四位下、遠江守、石見守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗→家重 |
藩 | 信濃飯山藩主→遠江掛川藩主→摂津尼崎藩主 |
氏族 | 桜井松平家 |
父母 | 父:松平忠継、母:本多康将の娘 |
兄弟 | 忠敏、忠喬、永井直圓正室、菅沼定易正室 |
妻 |
正室:戸田忠真の娘 側室:岩崎氏、土屋氏 |
子 | 忠名、忠義、喜連川茂氏正室、雲鏡院、松平親純正室、秋江院、安部信平正室 |
生涯
編集飯山藩世嗣松平忠継(藩主松平忠倶の子)の二男として誕生[1]。『寛政重修諸家譜』によれば天和2年(1682年)生まれである[1]が、家臣の家に伝わる史料では天和3年(1683年)1月9日生まれと記録されており[5]、幕府には実年齢より年長に届けられたとみられる[5](官年参照)。
元禄7年(1694年)12月、父の忠継は病気を理由として廃嫡された[1]。忠喬の兄・忠敏が飯山藩の世嗣になり、元禄8年(1695年)2月には祖父を継ぐべき「嫡孫」として幕府に認められたが、同年12月に24歳で早世した[1]。このため忠喬に世嗣の座が回ってきたが、元禄9年(1696年)5月26日に大坂加番を務めていた祖父が任地大坂で死去し[1]、7月25日に忠喬が15歳(公式年齢)で藩主を継ぐこととなった[1]。ただし、将軍への御目見や世嗣としての任官をすませていなかったために[5]、7月28日に綱吉に御目見し、家督相続を謝している[1][5]。この際、綱吉に父の遺品の越中則重の刀、御台所に一条冬良筆の『古今和歌集』、桂昌院に足利義政筆の『和漢朗詠集』をそれぞれ献上した[1]。12月22日、従五位下遠江守に任官[1]。
大名となった松平忠喬はほとんどを江戸で過ごしており、初の領地(飯山)入りは元禄13年(1700年)のことであった[5][1]。江戸滞在中には将軍の外出への供奉や、各種の普請、西之丸大手御門番などの役を務めた[5]。また幕命により朝鮮通信使の接待役、日光東照宮の警護役なども務めている。
宝永3年(1706年)1月28日、遠江掛川藩に移封される[1]。宝永8年(1711年)2月11日に摂津尼崎藩に移封された[1]。尼崎藩主となった桜井松平家の菩提寺となる深正院(尼崎市大物町)は、正徳元年(1711年)に忠喬が尼崎に建立したと伝えられ[6]、寺の名は大坂で死去した祖父・忠倶の法名の院号にちなむ[6]。
享保2年(1717年)1月22日の大火(小石川馬場火事)に際しては、防火の任務を与えられていたために自ら家臣を指揮し、のちに家臣が老中に呼ばれて労を賞されている[1]。寛延3年(1750年)12月18日、従四位下に昇叙[1](桜井松平家で唯一の事例[5])。寛延4年/宝暦元年(1751年)3月20日に致仕[1]。同21日に石見守に遷る[1]。
家督は次男・忠名が継いだ。宝暦6年(1756年)2月5日、尼崎において死去した[1]。74歳没[7](「公式年齢」で75歳[1])。深正院に葬られた[1]。
系譜
編集特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[8]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
- 父:松平忠継
- 母:本多康将娘
- 正室:戸田忠真娘
- 生母不明の子女
- 長女(1):喜連川茂氏室
- 八女(10)
- 側室某氏
- 長男(4):勝千代 - 早世
- 四女(5)[注釈 2]
- 側室某氏
- 側室:岩崎氏
- 側室:土屋氏
- 三男(14):松平忠義
補足
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.29。
- ^ a b “櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
- ^ a b c 山下幸子. “松平忠喬”. Web版 尼崎地域史事典. 2021年11月27日閲覧。
- ^ “尼崎藩主であった戸田家・青山家・(桜井)松平家3家・歴代12人の墓所を調べたい。”. レファレンス協同データベース. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 岩城卓二. “藩主の一生”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b “じんしょういん/深正院”. Web版 新纂浄土宗大辞典. 2021年11月25日閲覧。
- ^ “松平忠喬”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月27日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.29-30。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.30。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第五
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/24
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)