松平忠誨
松平 忠誨(まつだいら ただのり)は、江戸時代後期の大名。摂津国尼崎藩の第5代藩主。桜井松平家14代当主。官位は従五位下・遠江守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和3年7月14日(1803年8月30日) |
死没 | 文政12年8月27日(1829年9月24日) |
別名 | 田鶴千代、与一[1] |
神号 | 源忠誨朝臣命[注釈 1] |
戒名 | 尚徳院保誉興仁道俊[3] |
墓所 | 兵庫県尼崎市の深正院 |
官位 | 従五位下遠江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 摂津尼崎藩主 |
氏族 | 桜井松平家 |
父母 | 父:松平忠宝、母:土屋篤直の娘・八百子 |
兄弟 | 忠誨、忠顕、松平乗全正室ら |
妻 | 正室:青山忠裕の娘 |
子 | 養子:忠栄 |
略歴
編集享和3年(1803年)7月14日[1][4]、4代藩主・松平忠宝の次男として誕生[1]。兄は早世しており[5]、尼崎藩の世嗣となった。文化10年(1813年)4月14日[3]、父の隠居を受けて、11歳で家督を継いだ[1][4]。
文政12年(1829年)8月27日[1][3]、尼崎において死去した[3][6]。享年27[1]。なおこの年4月14日には隠居の忠宝も没している[4]。
忠誨は婚姻しておらず[4]、世嗣となるべき子も無かった[7]。忠誨には弟の忠顕がいたが、忠顕は心の病を患っていたという[6]。このため、10月2日に忠誨の叔父(3代藩主忠告の末子)にあたる忠栄(26歳)が跡を継いだ[7]。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f “松平忠誨”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月27日閲覧。
- ^ “櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
- ^ a b c d 山下幸子. “松平忠誨”. Web版 尼崎地域史事典. 2021年11月27日閲覧。
- ^ a b c d 岩城卓二. “藩主の一生”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.31。
- ^ a b 岩城卓二. “忠栄と忠興”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b 公手博. “側室・澤田すめ”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。