松平直周
江戸時代中期から後期の大名。播磨明石藩6代藩主。従四位下左兵衛督、大蔵大輔。直良系越前松平家7代。松平直泰の三男
松平 直周(まつだいら なおちか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。播磨国明石藩6代藩主。官位は従四位下左兵衛督、大蔵大輔。直良系越前松平家7代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永2年6月28日(1773年8月16日) |
死没 | 文政11年4月7日(1828年5月20日) |
改名 | 直松(幼名)、直周 |
別名 | 恒吉(通称) |
神号 | 武直神霊 |
戒名 | 巍徳院殿高誉勇山哲英大居士 |
墓所 | 兵庫県明石市人丸町の長寿院 |
官位 | 従五位下左兵衛佐、従四位下左兵衛督、大蔵大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 播磨明石藩主 |
氏族 | 越前松平家支流明石松平家 |
父母 |
松平直泰、里嘉子 松平直之 |
兄弟 |
直之、直周、直暠、中条信徳、直方、 本多忠曄、有馬広寿、直顕、安藤定則、 千賀直標、直宝、直董、栄、輝、寿、 堀田一権正室、幹、喬、晋、小堀政共正室ら |
妻 | 溝口直信長女春姫、逸 |
子 | 斉韶、直堅、直載、邦、誠、脩 |
生涯
編集安永2年(1773年)、4代藩主・松平直泰の三男として江戸藩邸にて誕生。天明6年(1786年)兄・直之の危篤により4月14日に世嗣となり、翌日に兄が死去する。6月7日に家督を継ぐ。寛政元年(1789年)、初めて11代将軍・徳川家斉に御目見する。従五位下を叙任、左兵衛佐と名乗る。
寛政3年(1791年)、新発田藩主・溝口直侯の妹・春姫と婚姻する。寛政8年(1796年)、幕府より濃尾三川の改修工事を命じられる。財政窮乏の中での工事のため、領内の商人より借財を行う。寛政9年(1797年)、従四位下に昇進、左兵衛督に改称する。寛政10年(1798年)、正室・春姫が死去し、浅草の幡随院に葬る。寛政11年(1799年)、干魃のため1万石の大減収となる。このため領内の商人などから寄付を募り、翌寛政12年(1800年)に寛政池を造築する。享和3年(1804年)、父・直泰が卒中のため明石城二の丸にて死去する。
文化13年(1816年)、隠居を申し出、家督を次男・斉韶に譲る。翌年、江戸高輪の別邸に移る。文政4年(1821年)、大蔵大輔と改称する。文政11年(1828年)死去、享年56。
系譜
編集参考文献
編集- 黒田義隆編著『明石藩略史』明石葵会、1981年