松平斉民

日本の江戸時代後期~明治時代後期の大名。江戸幕府11代将軍徳川家斉十五男で、美作津山藩7代藩主松平斉孝婿養子。津山藩8代藩主。従三位
松平確堂から転送)

松平 斉民(まつだいら なりたみ)は、江戸時代後期の大名美作津山藩8代藩主。確堂の号で知られる。

 
松平斉民
松平斉民
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化11年7月29日1814年9月12日
死没 明治24年(1891年3月23日
改名 銀之助(幼名)、斉民、確堂(号)
諡号 文定院
戒名 文定院殿成誉寂然確堂大居士
墓所 東京都台東区谷中谷中霊園
官位 従四位上侍従三河守左近衛権少将正四位上・左近衛権中将、越後守従三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶家定家茂慶喜
美作津山藩
氏族 徳川将軍家越後松平家
父母 徳川家斉皆春院
養父:松平斉孝
兄弟 清湛院徳川家慶徳川敦之助峰姫
徳川斉順浅姫徳川虎千代、元姫、
徳川斉明、文姫、徳川斉荘、盛姫、
池田斉衆溶姫、和姫、斉民末姫
喜代姫徳川斉温斉良、永姫、
徳川斉彊斉善蜂須賀斉裕斉省
斉宣、泰姫ら26男27女
松平斉孝松平斉孝養女
康倫康民三浦義次婚約者ら
養子:慶倫
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生涯 編集

11代将軍・徳川家斉の十五男として誕生した。12代将軍徳川家慶の異母弟にあたる。

文化14年(1817年)9月18日、津山藩主・松平斉孝の養嗣子となる。文政5年(1822年)2月1日、御目見。文政7年(1824年)3月28日、元服して父・家斉より偏諱を受け斉民と名乗り、従四位上・侍従・三河守に叙任する。文政9年(1826年)12月、左近衛権少将。のち正四位上・左近衛権中将、越後守。天保2年(1831年)11月22日、養父の隠居により家督を相続する。天保3年(1832年)4月19日、初入国する。以後、藩の財政再建や教育の普及などに力を注いだ。

安政2年(1855年)5月3日、養子の慶倫(斉孝の四男)に家督を譲って隠居し、確堂と称する。文久3年(1863年)4月、津山に隠居した斉民に対し、幕府は毎年1万俵の隠居料を給したが、これは将軍・家斉の実子という理由の他に、誠実な性格で将軍家において人望が厚かったためとされる。

慶応元年(1865年)3月、江戸に出府する。維新の動乱の際は、勤皇、佐幕の方針をめぐって藩内は混乱したが、斉民の力をもって勤皇に統一した。慶応4年(1868年)5月3日、江戸開城に伴い新政府より田安亀之助(徳川家達)の後見人を命じられ、その養育に尽力した。明治14年(1881年)12月、従三位に昇進する。明治15年(1882年)6月、麝香間祗候

明治24年(1891年)3月23日、78歳で死去した。家斉の53人の子(そのうち男子は26人)や孫の多くが夭折したり、子孫が残せぬものが多い中、例外的に長命であったといえる。

人物 編集

  • 天璋院と固い信頼関係にあったという。20歳ほど年下である彼女の死に際して、「御姿を仰ぐも悲しぬかつけは 落るなみたに雪もきえつつ」と詠んでいる。
  • 安政5年(1858年)、大老井伊直弼は14代将軍徳川家茂の後見として、徳川慶頼と共に斉民を据えようと画策する。直弼は斉民に対して清水徳川家の相続を働きかけたものの、斉民が辞退したこと、またその後の幕府による調査の結果「評判宜しからず」と評価されたことなどから、この話は立ち消えになった[1]
  • 現在まで残っている家斉の男系子孫は、斉民の子孫のみである。

栄典 編集

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 東京大学史料編纂所編纂『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料八』安政五年八月井伊直弼書簡
  2. ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。

外部リンク 編集