松平頼儀

江戸時代後期の大名。高松藩第8代藩主

松平 頼儀(まつだいら よりのり)は、江戸時代中期から後期にかけての大名讃岐高松藩の第8代藩主。官位従四位上左近衛権中将讃岐守

 
松平 頼儀
松平頼儀(愛媛県歴史文化博物館蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永4年11月12日1775年12月4日
死没 文政12年8月25日1829年9月22日
官位 従四位上左近衛権中将讃岐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
讃岐高松藩
氏族 高松松平家
父母 父:松平頼真、母:即就院
養父:松平頼起
兄弟 頼儀、勝
正室:前田治脩の養女・藤姫
継室:池田治政の娘・晴姫
側室:藤木氏
頼該頼胤頼顕本多忠民、倫姫、井伊直亮正室、板倉勝明正室、律姫ら
養子:頼恕
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生涯 編集

第6代藩主・松平頼真の長男として誕生した。母は側室の即就院(中山氏)。

寛政4年(1792年)、叔父で第7代藩主であった松平頼起の跡を継いだ。当初は緊縮財政を行っていたが、次第に奢侈に傾き、藩札の乱発により物価高騰と紙幣の価値低下(インフレーション)を起こした。また、殖産振興策にも失敗し、さらに江戸屋敷が火災に遭ったり、屋島神社(讃岐東照宮)造営の建築費を支出するなどした結果、江戸・大坂の商人からの借財が50万両以上に達し、藩財政が破綻状態に陥った[1]。そのため、東浜の海岸一帯を埋め立てて問屋街を造ったり、「讃岐二白」と呼ばれる製塩と製糖の産業育成を行うなどした。就任中、16回の旱魃に遭う。

文政4年(1821年)、婿養子の頼恕に藩主を譲り、隠居した。文政12年(1829年)死去。享年55。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年