松平頼該
松平 頼該(まつだいら よりかね)は、江戸時代後期の讃岐国高松藩の藩主一門(連枝)。仏教改革者。通称は左近(さこん)。号は橘斎、橘舎、金岳、如水庵。別称に宮脇公。幼名は隆之丞、道之助。江戸小石川出身。
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化6年3月14日(1809年4月28日) |
死没 | 慶応4年8月10日(1868年9月25日) |
改名 | 隆之丞・道之助(幼名)→頼該 |
別名 | 宮脇公、通称:左近、号:橘斎、橘舎、金岳公子、如水庵 |
官位 | 贈正四位 |
藩 | 讃岐高松藩 |
氏族 | 高松松平家 |
父母 | 父:松平頼儀 |
兄弟 |
頼該、頼胤、頼顕、本多忠民、倫姫、 井伊直亮正室、板倉勝明正室、律姫ら 養兄弟:頼恕 |
略歴編集
高松藩8代藩主・松平頼儀の長男として誕生した。異母弟の頼胤が生まれると疎まれ、8歳のとき国元高松に移される。31歳で高松藩城下の宮脇村亀阜荘へ隠居する。その後、幕末の勤皇志士と交わり、日柳燕石、藤川三渓らを庇護した。また本門法華宗の高松八品講を組織する。
戊辰戦争で高松藩は、慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いに幕府側として加わったことから朝敵となり、官軍による征討の対象となった。藩内には、官軍を迎え討って戦火を交えることを辞さない意見もあったが、頼該が藩論をまとめ、1月18日に家老の小河又右衛門久成(おごう またうえもんひさしげ)と小夫兵庫正容(おぶ ひょうごまさしず)を切腹させて首を鎮撫使に差出し、藩主頼聰を城から出させて浄願寺にて謹慎させ、官軍に恭順を示し高松藩を戦火から救った。頼該は同年のうちに死去した。享年60。本行院殿慈門金岳源該日教大居士を諡され、高松本堯寺に埋葬された。大正4年(1915年)11月、贈正四位。
参考文献編集
- 梶原猪之松『金岳公子傳』香川新報社、1915年(大正4年) 国立国会図書館デジタルコレクション