松本誠蔵(まつもと せいぞう、天保11年(1840年) - 明治元年9月23日1868年11月7日))は、幕末期の米沢藩士

略歴 編集

与板組(中士階級)津田善助利貞の次男として生まれ、同じく与板組松本又七郎高義の養子となる[1]

明治元年(1868年)、戊辰戦争において、米沢藩は他藩に先駆けて9月4日に政府軍への帰順を表明する。その後、米沢藩は政府軍より、近隣諸藩に対して降伏を説得する役目を命じられる[2]

松本は一旦会津藩へ出向いたのち、9月11日、堀尾啓助とともに南部藩へ向かう。南部からの帰路、22日午後、仙台藩領野上(のちの川崎町)に差し掛かったところで、仙台藩士日野徳次郎が引いた農兵隊員の待ち伏せに会い、松本が重傷を負う。近所の農家へ担ぎ込まれ、堀尾が医者を呼んで介抱されたが、夜半に日野の手の者が押し入り、乱闘の上二人を捕縛、惨殺した(薬師堂事件)。享年29[3]

日野の動機は、米沢藩がいち早く政府軍に帰順し、江戸幕府を裏切ったことに憤激したものであったという。平時ならば両藩の面子をかけた争いに発展するものであったが、当時は戊辰戦争の真っ只中であったため、本事件への対応は後回しにされてしまう。その後、両藩の間で談判が行われ、日野を米沢藩立会いの下切腹させ、下手人も藩律に従い処分することが取り決められた。ところが、この時点で明治新政府は藩法の適応について、死刑については留保するよう定めており、問い合わせを受けた刑部省は、日野は禁錮以下の刑が相当、と回答した。遺族は再審を願い出たが、暗殺は既に切腹済みの老職の命によることが判明した、との理由で却下されてしまった[4]

その後、旧藩主上杉茂憲が松本・堀尾の遺族とともに、両名を「維新殉難者」として靖国神社への合祀を求める上申書を提出した。靖国神社への合祀は、官軍に属して戦没したことが条件であったが、松本・堀尾両名が藩命を受けて南部へ発った時点で、米沢藩は官軍に帰属していた。この上申は認められて、両名は明治12年(1879年)6月24日、没後11年にして靖国神社に合祀された。国事殉難者の合祀は審査が進んでいなかったが、この時の松本・堀尾が合祀の第1号であった[5]

それから2年後の明治14年(1881年)、明治天皇は東北巡行で米沢に立ち寄った際、戦没者の遺族に恩賜金を下賜したが、これには西南戦争の戦没者とともに、松本・堀尾の遺族も含まれていた[6]

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ 米沢温故会編、『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』 (原書房、1988年)
  2. ^ , pp. 37–38.
  3. ^ , pp. 38–39.
  4. ^ , pp. 39–40.
  5. ^ , pp. 36–37.
  6. ^ , p. 40.

参考文献 編集

  • 秦郁彦『靖国神社の祭神たち』新潮社、2010年1月30日。ISBN 978-4-10-603654-5