松永長頼
松永 長頼/内藤 宗勝(まつなが ながより/ないとう そうしょう)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。丹波国船井郡八木城主。松永久秀の弟。内藤如安の父。
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 永禄8年8月2日(1565年8月27日) |
改名 | 松永長頼→内藤宗勝 |
別名 | 甚介(通称)、蓬雲軒 |
官位 | 備前守 |
主君 | 三好長慶→義継 |
氏族 | 松永氏→内藤氏 |
兄弟 | 久秀、長頼 |
妻 | 正室:内藤国貞娘 |
子 | 貞勝[注釈 1]、忠俊(如安)、ジュリア |
生涯編集
三好政権での出世編集
兄・久秀と共に三好氏の家臣となり、兄を補佐した。謀略を駆使して活躍した悪名高い兄に対して、誠実で武勇に優れ、主君の三好長慶から信頼された。三好家中での出世は兄より早く、久秀は弟の七光りで三好家中の地位を高めたともいわれる。天文18年(1549年)に長慶が上洛すると、当時「甚介」と名乗っていた長頼は細川晴元や13代将軍・足利義輝など幕府側からの京都防衛を任され、公家衆の所領を知行として受け取る一方で、山城国山科七郷などを十河一存と共に横領している(『言継卿記』)[1]。
天文19年(1550年)11月と翌20年(1551年)2月に義輝の後ろ盾である近江国の六角定頼を攻撃して義輝が籠もる中尾城を脅かし(中尾城の戦い)、7月14日に晴元の家臣香西元成・三好政勝(宗渭)らが丹波衆を率いて京都相国寺に陣取ると、兄と共に丹波衆を撃破した(相国寺の戦い)[2][3][4]。
丹波侵攻編集
天文22年(1553年)9月にも兄と共同で丹波国へ遠征して晴元方の波多野秀親の数掛山城(桑田郡)を包囲したが、香西元成・三好政勝が内藤氏の八木城を攻め、長慶方の丹波守護代・内藤国貞を討ち取ったため、急遽引き返して八木城を奪還した(『細川両家記』)[1][注釈 2]。この時、湯浅宗貞が千勝(内藤貞勝)を園部城に匿い長頼が来るまで持ち堪えている。長慶から丹波方面を任された長頼は国貞の娘を娶っており、内藤家の跡目は長頼の子(国貞の孫)の千勝が継承した[注釈 1]。長頼はその後見人であったと考えられる(「湯浅文書」「片山家文書」)[7]。
しかし、弘治2年(1556年)頃に「内藤蓬雲軒宗勝」と号しており、内藤氏を掌握したと考えられる[1]。弘治3年(1557年)には長慶が丹波に出陣、永禄2年(1559年)には八上城(多紀郡)を奪って波多野元秀を没落させ[8]氷上郡を除く丹波を平定し、同年までには単独で裁決を下すようになっており、丹波は宗勝の半独立した領国とまで言われるほどまでになっていた。また永禄5年(1562年)以降には「備前守」を名乗り、内藤家の家督を正式に継承していた[9]。さらに隣国の若狭国にも出兵し、守護の武田義統に反抗する逸見昌経の後ろ盾にもなっている。
以後も長慶の下で軍事行動を続け、永禄元年(1558年)5月、義輝・晴元らが近江から上洛を企てると兄と共に将軍山城・如意ヶ嶽で幕府軍と交戦(北白川の戦い)、永禄2年(1559年)と翌3年(1560年)の河内国遠征にも従軍、永禄5年(1562年)の畠山高政との戦い(教興寺の戦い)にも丹波国衆を率いて出陣しており、三好政権下の有力な軍団長であったといえる[10][11][12]。
最期編集
しかし丹波国人の反抗は止まず、永禄4年(1561年)6月の若狭出兵で、越前国の朝倉義景の援軍を得た武田義統との戦いに敗れ、波多野氏や赤井氏などの国人衆の蜂起を招き、永禄8年(1565年)、足利義輝が殺された永禄の変の2か月後の8月2日、丹波国人・荻野直正の居城である黒井城(氷上郡)を攻撃中に戦死した。宗勝死後の丹波では波多野元秀・荻野直正らが台頭し、同地における三好氏の勢力は大きく後退した[13][14]。内藤家の家督は子・如安が継いだ。
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ a b c d 田中 2013, pp. 148-160.
- ^ 長江 1989, pp. 108, 114, 120-121.
- ^ 今谷 2007, pp. 152, 159-161, 169.
- ^ 福島 2009, pp. 105, 107-108.
- ^ 福島 2009, p. 113; 福島 2014, p. 127.
- ^ 福島 2014, p. 126-134. 高橋成計「松永長頼(内藤宗勝)と丹波」、天野忠幸編『松永久秀 歪められた戦国の“梟雄”の実像』宮帯出版社、2017年。馬部隆弘「丹波片山家文書と守護代内藤国貞―拙著を踏まえて読み直す―」『大阪大谷大学歴史文化研究』19号、2019年。『八木城と内藤氏―戦国争乱の丹波―』南丹市立文化博物館、2020年(同名展示会図録)。
- ^ 田中 2013, pp. 148-160; 福島 2014, pp. 126-134.
- ^ 福島 2014, p. 120.
- ^ 福島 2014, p. 134.
- ^ 長江 1989, pp. 152-153, 155-159, 173.
- ^ 今谷 2007, pp. 184-188, 203-208, 214-224, 230, 241.
- ^ 福島 2009, pp. 112-116, 118-120.
- ^ 今谷 2007, p. 257.
- ^ 福島 2009, pp. 130-131.