松浦 一義(まつうら かずよし、本名:カズヨシ・ジョージ・マツウラ英語: Kazuyoshi George Matsuura)、1910年2月11日 - 1991年2月2日)は、プロ野球草創期に活躍したプロ野球選手。ポジションは投手

松浦 一義
George Matsuura
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ワシントン州シアトル郊外ノースロップ
生年月日 (1910-02-11) 1910年2月11日
没年月日 (1991-02-02) 1991年2月2日(80歳没)
選手情報
投球・打席[1]投右[1]
ポジション 投手
プロ入り 1936年
初出場 1936年7月1日
最終出場 1936年12月2日[2]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • ベルモント高
  • グランドセントラル・マーケット(セミプロ)
  • LA日本
  • 名古屋軍 (1936春夏途中 - 1936秋)

来歴・人物 編集

熊本県出身の両親の日系一世として、1910年2月11日にワシントン州シアトル郊外ノースロップで生まれた。6人兄妹の次男。小学校4年まで熊本で暮らした後、渡米。ベルモント高校時代に、グランドセントラル・マーケットという市場のセミプロチームでプレーし、堀尾文人と知り合った。グランドセントラル・マーケット解散後は、堀尾と共に日系人チーム最強と謳われたLA日本に入団し、のちに名古屋軍でチームメイトになるバッキー・ハリスバッテリーを組んだ。ニグロリーグの最強投手、サチェル・ペイジとも対戦したと伝わる。1931年3月よりチームの日本遠征に参加し、1935年4月には第一次アメリカ遠征中だった大日本東京野球倶楽部と対戦している。

1936年6月、ハリスと高橋吉雄(彼も日系二世であった)の紹介で名古屋軍に入団。投手不足だった名古屋軍の主戦投手となり、連盟結成記念全日本野球選手権(夏季)では、東京大会(戸塚球場)において、1完封を含む3連勝と奮闘しチームの大会優勝に貢献した[2]。速球派投手で調子の良い時の球速は、かの沢村栄治に匹敵したと言われ、打者の手元で微妙に変化するボールだったと言われている。外角速球を決め球としていたが、立ち上がりが悪いという欠点があった。

日中関係の悪化により、1936年限りで引退した。引退後はロサンゼルス植木職人になった。1991年2月2日に死去。享年80。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1936春夏 名古屋 6 24 21 7 9 1 0 1 13 4 1 -- 3 -- 0 -- 0 4 -- .429 .375 .619 .994
1936 17 35 32 3 3 0 0 0 3 0 1 -- 2 -- 1 -- 0 4 -- .094 .114 .094 .208
通算:1年 23 59 53 10 12 1 0 1 16 4 2 -- 5 -- 1 -- 0 8 -- .226 .220 .302 .522

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1936春夏 名古屋 6 3 3 1 0 4 1 -- -- .800 223 49.2 41 2 35 -- 3 12 3 0 17 13 2.34 1.53
1936 17 14 6 1 0 4 8 -- -- .333 408 85.0 78 0 78 -- 1 19 1 0 49 32 3.39 1.83
通算:1年 23 17 9 2 0 8 9 -- -- .471 631 134.2 119 2 113 -- 4 31 4 0 66 45 3.00 1.72

背番号 編集

  • 3 (1936年)[3]

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集