松田秀士
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松田 秀士(まつだ ひでし、1954年12月22日 - )は、日本のレーシングドライバー、自動車評論家。高知県生まれ、大阪府育ち
略歴編集
龍谷大学文学部仏教学科在学中にカートレース活動を開始。大学卒業後、地元の大阪で一般企業に勤めるも、26歳の時に上京し、義兄であるビートたけしの運転手兼付き人となる。
1983年、クルマ好きのたけしの援助を受けて、「たけしプロジェクト」の一環としてレース活動を再開。1980年代後半から1990年代初めにかけて数々のカテゴリのレースにおいて好成績を収めて、たけしの援助から離れてプロのレーシングドライバーとして一本立ちを果たす。1996年にはインディ500で8位という好成績を残す。その後は全日本GT選手権(現SUPER GT)などに参戦していた。
また、GAORAのインディカー・シリーズ中継ではコメンタリー(解説者)を務めており、実況の村田晴郎との名コンビで知られる。
また、自動車評論家としても活動していて、著作も多数ある。 日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員[1]であり、世界・カー・オブ・ザ・イヤー日本代表審査員のひとりである。
インディ500への参戦編集
松田のインディ参戦では日本人ドライバーとしての事績以外にも、SAFERバリアの開発への貢献が挙げられる。20世紀後半、インディカーは際限の無い性能向上により平均周回速度が400km/hに迫る状況となっており、幾つかの死亡事故と、少なからぬドライバーを引退や活動縮小に追い込む多数の負傷事故が発生していた。
こうした状況を受け、インディ・レーシング・リーグは1998年よりPEDSバリアと呼ばれる衝撃吸収壁を試作していたが、松田は2000年のインディ500予選にて改良型のPEDS-2バリアに時速320km/hで激突、松田の体には160Gの加速度が掛かり、手首と膝を複雑骨折するも生還した。
この際にPEDS-2バリアの隠れた欠陥が複数明らかとなり、松田の車両の事故時のテレメトリーデータ等も参考とされて再設計が行われ、2002年にSAFERバリアとして完成したものとなった。
レース戦績編集
全日本GT選手権/SUPER GT編集
全日本ツーリングカー選手権編集
年 | チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
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1998年 | シムスレーシング | スバル・インプレッサ | FSW1 9 |
FSW2 9 |
TRM | SUG1 | SUG2 | SUZ1 | SUZ2 | MIN1 | MIN2 | TAI | FSW | 11位 | 5 |
脚注編集
- ^ 日本カー・オブ・ザ・イヤー2009-2010 選考委員