板倉勝重
板倉 勝重(いたくら かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての旗本、大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した[1]。
![]() 板倉勝重像(長圓寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文14年(1545年) |
死没 | 寛永元年4月29日(1624年6月14日) |
改名 | 勝重→香誉宗哲(法名) |
別名 | 通称:四郎右衛門 |
戒名 | 従四位下行侍従兼伊賀守源朝臣勝重源英居士 |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町入の長圓寺 |
官位 | 従五位下、伊賀守、従四位下、侍従 |
幕府 | 江戸幕府京都所司代 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 父:板倉好重、母:本多光次娘 |
兄弟 | 忠重、勝重、定重 |
妻 | 正室:粟生永勝娘 |
子 |
重宗、重昌、重大、戸田光正室、 川村重久室、槙小太夫、安藤重能正室(後徳山直政室) 養子:重好[注釈 1]、養女(伊東長昌正室) |

生涯編集
天文14年(1545年)、板倉好重の次男として三河国額田郡小美村[注釈 2]に生まれる[2]。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが永禄4年(1561年)に父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟・定重も天正9年(1581年)に高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で還俗して武士となり、家督を相続した。
その後は主に施政面に従事し、天正14年(1586年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、同18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で1000石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、三河国3郡に6600石を与えられると共に京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し春日局が応募したという説がある。[要出典]
慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され、同14年(1609年)には近江国・山城国に領地を加増され1万6600石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。慶長19年(1614年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。翌年の夏の陣では古田重然家臣木村宗喜が、大坂方と内通して計画した京への放火を阻止する。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。元和6年(1620年)、長男・重宗に京都所司代の職を譲った。
元和9年、従四位下に昇り、侍従に任ぜられる。当時は、御譜代衆の侍従以上の官位を帯びていたのは、松平隠岐守定勝(少将)、井伊掃部頭直孝(侍従)のみであった(「武家補任」)。
江戸時代後期の1793年(寛政5年)、備中松山藩(岡山県高梁市)の第4代藩主・板倉勝政により、備中松山城(臥牛山)下に勝重・重宗父子の霊を祀った八重籬神社が建立された[3][4][5]。
板倉政要編集
勝重と重宗は奉行として善政を敷き、評価が高かった。勝重、重宗の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集となって後世に伝わった。
板倉政要が成立したのは元禄期とされる[6]。成立の経緯には、名奉行の存在を渇望する庶民の思いがあった[7]。公明正大な奉行の存在を望む庶民達の渇望が、板倉勝重、重宗という優良な奉行に仮託して虚々実々を交えた様々な逸話を集約させ、板倉政要を完成させた。
板倉政要の中には後の名奉行大岡忠相の事績を称えた『大岡政談』に翻案されたものがある。三方一両損の逸話はその代表とされる。また板倉政要自体も、明の『包公案』『棠院比事』などから翻案された話が混入して出来上がっている。
脚注編集
注釈編集
- ^ 勝重妻は先夫・中嶋重次との息子・重好と娘の2人を連れて再婚し、勝重の養子とした。中島与五郎重好は後に徳川家康の許しを得て、慶長6年(1601年)に三河国渥美郡大崎に607石を与えられ実父の家系を再興し、交代寄合旗本中島与五郎(中嶋與五郎)家の祖となった。中島家はのちに知行1千石を越える。織田家に属していた中島与五郎政成が織田信長の娘の五徳の輿入れに従って徳川家家臣となった。政成の子で、重好実父の中島与五郎重次は天正4年に遠江国相良沖で武田氏の海賊衆と交戦して敗死している。重好も、天正18年には徳川氏の船手衆小笠原正吉(幡豆小笠原氏)の推挙で徳川家康に拝謁し、船手役を勤めていたとする記録がある。与えられた領地大崎でも海に面した大崎城跡に陣屋を構え、将軍の上洛時は三河湾の海上警備を命じられている。徳川氏にとって中島家は、板倉氏の推挙が無くても三河の海を守備するために必要だったとも考えられる。
- ^ 現在の愛知県岡崎市小美町。
出典編集
参考文献編集
- 丹野顕『江戸の名奉行』新人物往来社、2008年。
小説編集
登場作品編集
関連項目編集
- 池田光政 - 治世は「四角い箱に味噌を入れて丸い杓子で取るようにするがよい」という勝重の助言を座右にした名君。
外部リンク編集
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