板垣 真理子(いたがき まりこ)は、日本の写真家[1]日本写真芸術専門学校文京学院大学講師。

概要 編集

文京短期大学英文科(現 文京学院大学)卒業[1]。東京海上火災保険株式会社に勤めた後、音楽修業と渡米を果たし、1981年からフリーランスの写真家となる[1]。2000年~2011年、日本写真芸術専門学校講師、2002年~2009年、日本ジャーナリスト専門学校講師、2003年~2008年 文教学院大学自由学科講師[1]

1982年、ジャズ・ミュージシャンを撮ったことがきっかけで写真の世界に入る[2]キース・ジャレットパット・メセニーなどのカレンダーを手掛け[1][2]マイルス・デイヴィスの東京講演でステージ撮影を行った[1]。1984年、キング・サニー・アデの音楽に魅せられて初めてナイジェリアを訪れた際、同じくナイジェリアの音楽家、アフロ・ビートの創始者であるフェラ・クティと運命的な出会い。ナイジェリアで彼に会った最初の日本人写真家となる。後に彼の半生記を著し、アフリカのポップ・ミュージックのメッセージ性を紹介した[1]。それ以来、東西南北アフリカ、南米、カリブ、アジアなどで取材を重ね、西アフリカ、ナイジェリアのヨルバ文化と宗教に興味を持ち、それらが伝播した先の、ブラジル、キューバなどの環大西洋で取材を続けている[2]。ヨルバ文化にまつわる80年代初頭からの長年の取材は、ルーツのナイジェリア、ブラジルの特に北東部のバイーア、そしてカリブの国キューバなどを何度にもわたって取材し、この三地域を網羅する旅人で写真家、文筆家として、もっとも早期から紹介してきたエキスパートとなる。これらの活動は「熱帯地域における音楽文化の記録と紹介に関する啓発活動」として、2014年度の大同生命地域研究特別賞を受賞した[1]。著書、写真集、写真展多数。公式ウェブサイト(新) https://afrimariafrimari.wixsite.com/mariko-itagaki-photo

また、2015年から、キューバのラウル・カストロ、米国のオバマ政権時代の両国の国交復興を目の当たりにするため、キューバに在住。その時に偶然習った歌のレッスンがきっかけで、ハバナで歌い始める。ホテル・ナシォナル、ホテル・ハバナ・リブレなど、目覚ましい場所での活躍もあった。コロナ・パンデミック中に再度キューバに渡ったが帰国。現在は日本で、写真、文筆、歌ともに活動を続ける。

著書 編集

  • 『おいでよアフリカ』(晶文社)
  • 『踊るカメラマン』(晶文社)
  • 『歓喜・AYO』(情報センター出版局)
  • 『ベトナムの人』(三五館)
  • 『Carnival in Black』(三五館)
  • 『笑ってる?』(三五館)
  • 『魔女ランダの島・バリ』(スリーエーネットワーク)
  • 『バイーア・ブラック』(トラベルジャーナル)
  • 『キューバ、愛 !』(作品社)
  • 『アフリカ・喜・気・樹』(理論社)
  • 『虹色のこどもたち』(理論社)
  • 『キューバ・甘い路上』(フィールドワイ)
  • 『武器なき祈り』(三五館)
  • 『スプーン曲げに夢中』(彩流社)
  • 『アフリカン・ビューティ』(三五館)
  • 『ブラジル紀行/ バイーア、踊る神々のカーニバル』ブルースインターアクションズ刊
  • 『キューバへ行きたい』(新潮社・とんぼの本)
  • 『CUBA AMOR』(彩流社)

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 板垣 真理子|大同生命地域研究賞受賞者一覧|大同生命地域研究賞の贈呈|事業紹介 | 公益財団法人大同生命国際文化基金”. www.daido-life-fd.or.jp. 2022年2月9日閲覧。
  2. ^ a b c 板垣真理子 | 著者プロフィール | 新潮社”. www.shinchosha.co.jp. 2022年2月9日閲覧。

外部リンク 編集